それは愛を誤解しているからでは? |
セラピーで、「愛」はメインテーマだと言えます。
愛について、悩む人が後をたちません。実は、その悩みの背景に、愛への多くの誤解があるのです。
「愛」は、恋愛であれ、親子であれ、友情であれ、それは人間関係の中で生まれるものです。
誰でも、一人では生きられません。だから、愛を求め、与え、受け容れ、また与える。その中で人との交流や関係が広がります。生きていくこと、それ自体、愛の実践です。
では、「愛」とは 何でしょうか?愛を感じた時を思い出してください。誰かが自分のことをわかってくれた時、あるいは自分と言う存在を尊重してもらえた時、認めてくれた時…
相手に理解されていると気付いた時、そこには愛があります。あなたが相手を理解できた時、相手はうれしくなります。そこに愛を感じるからです。
つまり「愛とはお互いを理解し合うこと」。人は一人で生きられません。だから、本当にそれができれば、それは「愛」なのです。愛を実践するのが、生きることなのですから。
でも「愛」ほど、誤解されていることはないのです。
以前、失恋の相談に来た女性は、愛を与えることが、いわば生きがいでした。
付き合い始めるとその男性に、肉じゃがを作っておいしいと言われれば、うれしくなってまた作ってあげる。彼の部屋の掃除をして、きれいになったと喜んでくれれば、また、掃除をしに行く。
尽くしているのに、なぜか毎度、振られてしまう… その時の相手のセリフはいつも同じ。
それは「君は重いんだよ。」という言葉です。
いったい、彼女は何を間違ったのでしょうか?
彼女は、彼に対して、優しさとともに誠実に尽くし、彼が喜ぶことをしていたつもり。
一般に、この例のように、相手に誠実で精いっぱい優しくあれば、それが愛だと思っている人が多いです。
しかし、そこが誤解なのです。愛を与えているつもりでも、相手が必要なことを与えていなければ、それは自己満足。相手が欲しがってないのに押し付けていると気付けないなら、それは相手をよく理解していないからです。
彼が言う、「重い」という言葉、「君はね、愛情を与えているつもりで、君がしたいことを僕に押し付けているだけなんだよ」という意味なのです。何を望んでいるのか、相手の立場になってもっと理解したら、結果は変わったでしょう。
ただ一途に愛を与えれば、それが愛…と思う背後には、愛を与えることで、愛されたいという隠れた気持ちがあるのです。
自分がしてあげたことを通して自分と言う存在を理解してもらえること=愛を得ることですから。
このことは、恋愛だけでなく、親子関係でもよく見られます。母親が良かれと思っても、子どもは押し付けられて迷惑だというケースはよくあります。子供はそれにうんざりし、「お母さんは、私のことをちっともわかってないじゃない。」と言います。
場合によっては「お母さん、うざい」と言われるのは、こんな愛の誤解があるからです。「母も重い」と言われることがあります。お母さんにしてみれば「こんなに子供を愛しているのに、なんてこと…」とショックを受けてしまいます。
子供にしても、わかってもらえない=愛されていない 感覚をもつ構図ができてしまいます。
こうした例の背後には、「愛は二人が一つに溶け合うこと」などという誤解もあります。恋人なら、私のことを愛しているなら、私とあなたは一心同体。親子なら、自分が産んだ子は自分と一体。二人の間に境界がないのを理想的な愛と錯覚し、一体化を強要しがちです。仲間意識でも「みんな同じ」が良いことと錯覚し、「同じ釜のめし」などの言葉に象徴されるように、「みんな一緒だから理解しあえるのだ」という勘違いにつながります。
それでは、べったりとした関係となり、互いに自立できません。一方が相手に自分の言うことを聞いて当然になり、また、自ら自己犠牲のように誰かに従うことが当然になることも。これは、パートナー間ではDVを生み、仲間内で、いじめのようなことが起きる場合も。そこに、お互いの理解がない以上、愛ではありません。
互いに相手を理解すると、自分と人は違う、一人一人違う、と気付け、個性を尊重し合え、むしろ境界はくっきりします。だから、互いの世界を理解しあい思いやれる「愛」では、相対的に自分の世界がより見えます。
私がいて他者がいる。他者がいて自分がいる。一人の人として、お互いに、より個としての意味が強まります。この関係では、一体化ではなく、自分をわかってくれる人がいて、共に支え、自立し、自分を生きられます。愛はもっと増え、広がります。
そんな相手を理解し合う関係から生まれる「愛」、理想的だと思いませんか。
※写真の花は、秋明菊 初秋から咲き始めます。(ちょうどお盆の頃イギリスにいて撮りました)ピンクは「愛」を表わす色です。あるがままの相手をわかってあげられたら、理想的な愛になるでしょうね