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賀陽 輝代 ライフスタイルコーディネーター ワールド・チルドレンズ・ファンド・ジャパン
人生は泣いても笑っても一度きり。 たった一度だからこそ、自由に、楽しく、かつエレガントに、自分の人生をクリエイトされてはどうでしょうか。
Try anything, but once. ライフスタイル 2014-06-21
我儘は美徳

周囲の目を必要以上に重んじ、何よりも調和を大切にする日本の風習は端から、そして特に海外の目から眺めると確かに優雅で美しく見えるものらしい。しかし湖面に浮かぶエレガントな様子とは裏腹に、水面下でひたすらあくせくと水掻きを駆使して平衡を保つ白鳥の姿に何故か私は日本社会の縮図を思い起こさずにはいられない。そして私はこうした現象を密かに「スワンレイク・ソサエティー」と呼んでいる。

例えば日本の場合、会議の後に質問が無いかと聞かれ、その場で挙手して発言をする人の数は少ない。しかしそれは質問したい事項が無いのでは無く、ただ単に皆の前で自分の考えを述べるリスクを避けているだけ!但し、それをリスクと捉えるのも日本独特の風習によるものなのだが。。そして個々の席に戻ってから自分の意見や不平、不満を仲間内で語り合う、あるいは「実は・・・」と言う様な形で非公式に相手に自分の考えを伝えると言う、実に消極的なコミュニケーションでソサエティーあるいはコミュニティーが回っているような気がする。

フランス人と結婚し、長年パリ住まいの友人曰く「日本社会では“沈黙は金”と言われているけれど、ここでは慎重に言葉を選んで余り多くを語らない人より、例え常識的な観点から見ておかしいと思うような意見でもとりあえず何か言う人の方がまだ“まし”と捉えられる傾向があるのよ!」

そう、確かに芭蕉の有名な句「物言えば唇寂し、秋の空」なんて将に「日本的な美意識の世界」でしか通用しない感性なのかも知れない!又、日本人男性と結婚し、ご主人の実家で生活を共にしているあるアメリカ人の友人も又「私のダーリンは毎朝出勤前に「Honey, Don’t destroy harmony (お願いだから調和を失うような発言だけはしないでね!)」と言って出かけて行くのよ。」と面白おかしげな様子で語っていた。


確かに日本人は物事に接する際、Confrontation(直接向かい合う事)を嫌い、率直な意見の交換や意見の食い違いから生じる衝突を避ける為に、無意識のうちに「本音と建て前」を使い分けようとする傾向があるが、では果たして日本人が抜きん出て物言わぬ穏やかな国民で、何となくあいまいなグレイゾーンの落とし所に満足しているのかと言うと、どうも話はそんなに簡単なものではないらしい。つまり「建て前しか口に出来ない不満」がネガティブなエネルギーに変身し「本音」の部分で影に回って不平不満や他人の悪口を口にすると言う、極めて不健康な状況を生み出すのである。

話は少し横道に逸れるが、かつてアメリカから来ているビジネスマンから「本音と建て前」や「腹芸」の真の意味を聞かたれ時「”Art of conveying unspoken messages” which could lead to a beautiful yet eternal misunderstanding of one another!」とちょっぴり皮肉を込めた私の意訳に妙に納得された記憶がある。本当に、"美しい誤解” が永遠なる誤解で終わるのなら、それはそれで生きる上での一つの機智であり、美学なのかも知れない!

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と言う諺があるが、これは「暗黙の了解」でコミュニケーションが成り立ち、一度諍いを起こしたらその関係を修復し難い単一民族国家特有の現象!だからこそ、本音を口にし、角が立つ言葉遣いを極力避け、公共の場ではお天気など安全な会話運びでお茶を濁すと言う現象が起きるのであろう。その一方、移民を受け入れ、様々な民族で構成されている多民族国家のアメリカやヨーロッパなどでは、暗黙の了解など存在せず、言葉や態度でお互いを確認し合い、「それはそれ、これはこれ」と割り切って物事に対処しなければ、周囲の状況、ひいては社会全体が収拾不可能な事態に陥ってしまう!

以前ある雑誌のコラムに「駐日大使インタビュー」の連載記事を紹介していた頃、ある大使は西洋と日本社会を比較し、このような発言をしている。「日本社会では物事を取りきめる際、まず国が先に有り、その後にソサエティー、コミュニティー、そして最後に個人と言う観念で動いているが、西洋社会はその逆で、まずは個人、その後にコミュニティー、ソサエティー、そして最後に国と言う優先順位で物事を考える傾向が強い。」

どちらが良くてどちらが悪いと言う事は一概には言えないが、だから「全体主義国家」の日本は資源も無く小さな島国であるにも関わらず、ここまでの経済成長を遂げる事が出来たのであろう。しかしその一方「楽しんだ者勝ち」と言う観点から言えば、それは個人の犠牲の上に成り立つ「国家の繁栄」と考えるのは、あながち私だけでは無い様な気がする。

だからこそ、私は「日本人はもっと他人の目を気にせず、ストレートに自分の幸せを追求する必要があるのでは無いか?」と常日頃感じている。と言うより、そもそも「自分にとって真の幸福は何なのか?」と言う基本的な問い掛けを自分にする事が大切なのではないだろうか?かつての日本社会ではそうした考えを持つ事自体が「個人主義」「我儘」と、周囲から顰蹙(ひんしゅく)を買ったものであるが、国際社会の一員として「多様性」を受け入れ、世界の舞台で多民族と渡り合う事を余儀なくされる21世紀を生きる若者たちにとって「我儘・自己主張」は、必要不可欠な武器の一つなのではないかと、様々な場面でつくづく思わざるを得ない今日この頃である。

「他者を尊重」し、「他人の言うことに耳を傾ける素直さ」は確かに美徳ではあるが、「自分を捨てた自己犠牲」の上に成り立つ偽善は、私達が“全てを許す全能の神では無く、自我を持つ人間である限りどうしても無理や歪(ひずみ)が生ずる。つまり「自分が幸せでなければ、他者を幸せにする事など出来ない。」と言う基本的な自覚の上に立って、まずは「真の自分の幸福を追求し、その上で他者の幸せを願う。」と言う順序で物事を考える方が生きる上で自然の摂理に適うと言うものではないだろうか?

自分が幸せで充足感に満ちていたら、他者の幸せを妬み、影でとやかく陰口を叩く事もなくなると言うものである。だから私はまだ人生の山登りの中腹で道に迷う人達に「自分を中心に物事を推し進める“我儘”」を素直に“良し”と、受け入れる考えを推奨したい。不思議な事に、周囲の目を気にせず自分が望む真実の声に従って事態に対処すると、物事が実にシンプルに見えて来て迷いが無くなる!


但し、ここで私が言う幸福とはただ単に「物理的、あるいは物質的な幸せ」あるいは「故意に他人を蹴落としたり傷つけたりする“強欲”から成り立つ幸せ」では無く、「自己の心の内に向けて問い掛ける充実感」更に深く言えば「自分が生きて行く上で真の意義に通じる幸福」とは何かと言う内面的な幸福への追求である。そしてその幸福を追求する過程で生じる「自己主張」は「自分探しの旅」に必要不可欠な鍵!

でも面白い事に今まで多少長い人生の道のりを経験して来た私がここに来て自覚する“幸せ”とは、尽きる所「家族を含める "誰か“の為に生きる自分」「例え微力でも誰かを支えて何かに貢献する自分」が感じる、人間らしく素朴でささやかな幸福の原点に戻るのである。きっと「自分の為だけに生きる人生」より「自分を含め、他者を尊重して生きる人生」の方がはるかに生きやすいと言う事なのであろう!

産まれた瞬間から死へ向かう宿命を背負う“限りある時間”を生きる私達にとって「自分探しの魂の旅」は多かれ少なかれ誰もが体験する長い(あるいは短い?)人生の道のりなのかも知れない。



 


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