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賀陽 輝代 ライフスタイルコーディネーター ワールド・チルドレンズ・ファンド・ジャパン
人生は泣いても笑っても一度きり。 たった一度だからこそ、自由に、楽しく、かつエレガントに、自分の人生をクリエイトされてはどうでしょうか。
Try anything, but once. ライフスタイル 2014-04-19
不埒な女

「不埒」を和英辞典で引いて見ると、Out-law等という単語に訳されていたりする。多分、「不埒」という日本語が持つ独特の意味合いにピタリと当てはまる英語の単語が見当たらないのであろう。

 

勿論、日本語でも「不埒」は正面切った解釈では「道理に外れた不届きな事」という意味に訳されていて、決して良い印象を持つ単語ではない。にもかかわらず、私は個人的にこの単語が隠し持つ密やかさと逆説的な色香のような匂いに惹かれたりするのである。

 

着物ならちょっと襟足を幾分抜き気味で着流す艶かしさ、洋服でも日本でなら一つ間違えば何かと誤解を受けそうなくらいに襟の大きくあいた自己主張たっぷりなヴァレンチノやシェレル、フェレなどのヨーロッパ・デザイナーによってデザインされた服、どちらに転んでも、どのように見られようと、それは「身に付けるあなた次第よ」と悪魔に囁かれているような気がする、そんなギリギリの計算できないセピア色に危うさにふと心が惹かれたりする。

 

そこに「自立した大人」の自分がいれば、着物や洋服がどんな「不埒」な主張をしても、その主張を跳ね除けて毅然とした「大人の色気」を表現できる。そんな自信に溢れた「心意気」を持った女性を私は「不埒な女」と呼び、エールを送りたい。

 

決して無理をせず、頑張りすぎず、自然で肩肘張らない穏やかなゆるぎない自信を備えている女性は柳のようなしなやかさがあり、そこはかとなく美しい。それはただ単に外面的な美だけではなく、むしろ「凛々しい」という表現にぴったりするような内からにじみ出てくる美しさのような気がする。もう一つ言えば、内に秘めた「したたかさ」を「エレガンシー」というオブラートで包んだ毒のような「危うさ」に私は惹かれたりするのである。

 

しいて強烈な自己主張をする訳でもないのに、何ものにも動かされずに、気が付いて見ると自然に相手を動かしている。「錨」をしっかり下ろし、来るものを拒まず、去るものを追わず、自分を見失う事なく、自然体で自分なりのスタンスを守り続ける。「動かざる事、山の如し」、それこそが本当の意味での女性の強さであり、それはどことなく「母性」の香りがしたりする。

 

私は人間関係をうまく維持する基本は「距離感覚」だと思っている。「夫婦」、「親子」、「恋人」、「友人」、「子弟」、そのどれをとっても関係が近くなればなる程自分の心の中にしっかりとした調節可能な距離感覚を持つことが大切になってくる。「親しき中にも礼儀あり」そして更に「親しき中にこそ礼儀あり」を肝に銘じていれば、あとはその距離感覚の手綱を上手に操るようにすれば良いだけ。

 

夫婦にしても決して一心同体ではなく、二心異体である事を自覚して、総てに「馴れ合い」にならず、どこかでお互いに踏み入れることの出来ない「ミステリアス」な領域を持ち続けて生活していくことが大切なのだと思う。そこには強烈な「自意識」と「所詮、一人で生まれて一人で死んでゆく」という個々の無常観や孤独の認識が必要である。その認識があるからこそ、愛する人が必要であり、そして無条件に自分を受け入れてくれる家族が必要になってくるのだと思う。結婚して子供が出来てお互いを「パパ」「ママ」と呼び合うようになっても、たまにはどこかで「男と女」として向き合う時間をつくる努力を忘れないで欲しい。子供が小さくて夜間に外出することが難しければ家のダイニングテーブルに花を飾り、音楽とワインで語らうひと時をつくることもできる。そう、日常の生活の中に「メリハリ」を演出する努力も「距離感」を遊ぶ優しさなのだと思うので。ほんのちょっとでも賛同なさる方達は、照れ臭がらずに日常の夫婦の枠から外れた「男と女」の距離感を楽しんでみてはいかがですか?

 

日本の社会の中では「らしさ」という事がとても大切に考えられる。「男らしく」「女らしく」「年相応に」「先輩らしく」・・・。勿論それは社会の規律を守るという意味では大切な事だと思う。でも、ちょっと角度を変えて考えてみて下さい。地球上に50億人の人間がいれば50億通りのDNAの組み合わせがある訳で、ほんのちょっとだけ常識の枠を広げ、各々がそれぞれの感性で「らしさ」を演じても良いと思うのですが。

 

同じ制服を着、同じブランドのバッグを持ち、同じ「らしさ」と「価値観」を分かち合い、「同類」という安心感の枠の中から抜けきらずに安易に生きていると「WHY」から始まる発想がなくなり、そこからこれが「答え」を探そうとして生み出す、「BECAUSE」で始まる多様性と独創性、柔軟性を見失ってしまう。

 

でも、この自問自答のような「WHY」と「BECAUSE」の質疑応答が社会に新しい息吹と改革を与えるのだという事を、特に今日の停滞する日本社会の中で今にも窒息しそうに喘いでいる私達は再認識するべきだと思う。

 

戦後50数年に渡る日本経済の復興は海外の人達から見ると、世界の七不思議の一つに数えられるほどの驚きであるという事を良く耳にする。日本人のまじめさと勤勉さ、団結した時のグループの強さの賜と、戦後の復興期をひたすら働き通して頑張りぬいてきた先人達には感謝したい。

しかしながら、その過程を終え、さて、次の段階に進もうとすると、今度は逆にその生真面目さが新しい発想の妨げになってしまうような事もあるらしい。

 

そこで「ふまじめ」な私は「まじめな」皆さんに提案したい。脇は甘く、でもガードは固く、遊び心を忘れずに、そしてどこかに「不埒」な香りを漂わせて。そう、「道理を変えて、今まで不届きと言われて来た事」をちょっぴり楽しむ心の余裕を持ってみましょうよ、と!


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