心理セラピーを受けることとカレーの鍋はよく似てる |
自分のこころに向き合うこととカレーの鍋は、よく似ていると思います。
始めのうちは、カレーは辛くても、口においしくスパイシーで刺激的。その刺激的な辛さを求め、食べ続けた結果、当然、鍋にカレーは無くなります。
自分のこころに向き合おうとセラピーを受けるうちに、自分が目を向けなかったことに気付く瞬間は、ピリッと刺激的。その気付きが解放を呼び、こころが楽になる、自分が変わる、自信がつく。そんなふうになるならば、自分が持っていた「おいしさ」を味わえます。
ただ、もっと似ているのは、カレーを食べつくした時と、心の奥にもう向き合うべきものが見当たらないと思った時。もちろん、満腹ならば結構だし、心の奥底まで解放ができたなら、それだけで価値あることには違いありません。でも、そこで「ゴール」にしてしまうのは、あまりにももったいないのです。
なぜなら、カレーの鍋の底も、こころの奥底も、のぞけばまだ何か残っていることに気付くはず。
鍋の内側にはへばりついたカレーが残っていて、洗おうすれば、にゅるっとします。それは嫌だとフタをして、放っておけば、鍋のかすは少量でもいたみます。放置した鍋は、怖くてフタをあけられません。
こころの内も、浄化すべきものがないようだけれど、実はフタをして見ないようにしただけ。まだ、かすが残っているのです。そして、それが何か悪さをしそうです。
そうだとすれば、セラピーに使った時間とお金は、何のためだったのでしょう。
時にいろいろなセラピーに興味を持ち、それぞれ体験して「素晴らしかった!」、「こんな風に変われた!」と語る人がいます。しかし、少し奇妙なことに気付きます。
なぜ、癒されたはずなのに、まだセラピー巡りをしているのでしょう。もちろんご自身の成長に伴って、新たな課題が浮上します。その対応なら、良い選択ですが…
もしも、セラピーが生かされていないのなら、惜しいですね。
生かすとは、たとえば、新しいことに踏み出す一歩が怖い… という人なら、その怖れが取れれば、新しい一歩を踏み出せているはず。しかし、新しいことへの一歩ではなく、踏み出したのは、新しいセラピー。新製品の洗剤を買ってくれば、カレーの鍋が自動的にきれいになると錯覚しているようなものです。
カレーの鍋底。こころでは、自分と向き合って、向き合って… というように、どんどんさらってなお奥に潜むもの。それは全部きれいにするには、一番厄介なものです。心理学で言う「シャドウ=影」という見たくないので、こころの奥に押し込んだものです。それこそがカレーの鍋にフタして見ないようにしたものです。
そんな鍋を洗いたくないという抵抗が起こります。「抵抗」は心理学用語でもあって、ひどい(と自分が思っている)自分を見たくないためにそれを認めないことで、自分を守っているのです。
でも、それでは鍋の奥が、とんでもないことになっていそう。さらに怖くなります。
賢明なあなたなら、「カレー鍋の汚れは、とりあえず水に浸けておけば、はがれてくるんじゃない?」と思うかもしれません。正解!さらに、少し時間も加えるといいでしょう。
では、こころにとって、汚れをはがす水に当たるのは何でしょう?それは、思いやりであり、理解なのです。どんな汚れがはがれても、受け容れてわかってくれる誰かです。
そこまで向き合うことをサポートしたセラピストなら、その役割をするでしょう。というより、鍋の底に至るまでも、水はときどき与えていたはずです。カレーが辛過ぎれば、水を飲むのを勧めるように。カレーがかたまってくれば、ゆるめるように。
実は、最後にへばりついたカレーとはいえ、今まで向き合ってきたものと、そんなに大差ないのです。だって、へばりついたとはいえ同じカレーには違いないし、向き合えなかったために、少し傷んだだけですから。
そして理解というお水がいっしょになれば、ゆるんできちんと対応できるはず。
私は、セラピストとして、クライアントの皆さまの心の奥底までお付き合いしています。奥底の正体がわかれば「自分がとんでもないものを抱えている」のではなく、客観的に自分を見て、自分を認められる人がほとんどです。それがご自身の価値に気付く機会になります。
このプロセスには、私は花の写真を使って行います。受容的にその人の感情を表現してくれるからです。花の写真もお水の役割をします。汚れを落とすのは、そんなに辛いことではありません。
シャドウには、ほとんどの人が無自覚に抵抗します。だからこそ、他者からの視点が必要。最後の砦を超えるまで、ぜひ、セラピストを、使って下さいね。
*写真のバラの色、オレンジからゴールドは「あなたの存在価値に気付く時を待っています」と伝えています。その気付きは、見なかった暗い奥に光を当てることから始まります。(写真はセラピー用のものではありません)