”当たり前”は本当にそう?ダイバーシティで気づく自分のレンズ |
梅雨の季節がやってきました。
あまり一般的には好まれない時期ですが、わたしは水分で潤ったこの季節が好きな方です。
雨が降ったあとの木々など、水分を吸ってみずみずしい生命力にあふれていて、なんだか見ていて嬉しくなります。晴れた日の朝、特別にありがたく感じるのも、この季節ならではです。
とはいえ、そう思うようになったのには、あるきかっけがあります。
20代の頃、カリフォルニア州に留学していた時のことです。
初めて海外での夏を迎え、なぜだか理由もわからず体がしっくりとこない日々が続きました。
現地での夏はさわやかで涼しく、過ごしやすいはずが、どこか調子が出ないという感じです。
その理由は、旅行でシカゴを訪れた時、一歩外に出た瞬間にわかりました。“湿気だ!”
思えばカリフォルニアで暮らし始めてほぼ1年、空気がいつも乾燥していました。
その時に肌で感じた湿気の気持ちよさは、今でも忘れられません。まるで喉が渇いてカラカラだったところに、全身を通じて水分補給ができたかのようです。それまでは日本にいてイヤだと思っていた湿気を、まさか自分の体が欲していたとは夢にも思いませんでした。
違いに直面してはじめて、自分の体が無意識ながらも、それまでの人生での「当たり前」を求めはじめたのです。
考えてみると、人とのコミュニケーションでも、似たようなことが起きている可能性があります。
だれもが持っている「当たり前」が、どのような家庭や環境で生まれ育ち、人生を経験してきたのかによって全く異なるためです。そして「当たり前」を、無意識に相手にも求めてしまいます。
眼鏡やコンタクトをしている人が、普段レンズを通じて物事を見ていることを忘れてしまうように、どんな人でも自分が持っている「当たり前」、すなわち自分のレンズを通して世界を体験しているのだということを、つい忘れてしまいがちです。
この「当たり前」を意識し、自分の持っているレンズを自覚していくことが、コミュニケーションを取ったり、人間関係を築いていく上で、とても大切な鍵だと言われています。
自分の「当たり前」を意識できれば、異なる「当たり前」を持った相手を ― ”おかしい!”
”間違っている!” ― とはねのけてしまうのではなく、むしろ自分はどういう人間なのだろう、
相手の視点は自分とはどう異なるのだろうと、違いから学ぼうという気持ちが芽生えます。
そうすると、よい方向にコミュニケーションのサイクルがまわりはじめます。
お互いの理解を深めるプロセスが、そこから始まっていくのです。
ダイバーシティに出会うことは、自分の「当たり前」に気がつかせてくれる経験でもあります。
前にいた職場で、こんなことがありました。
残業をしていたある日、夜遅くのことです。
とても優しいアジア人の同僚が、
”何か食事を買ってきてあげるよ”と言ってくれました。
彼は日本語がとても堪能で、日本在住も10年を超えています。
わたしは、”そうしたら、何かさっぱりとしたものをよろしくね”
とお願いしました。
なんと、買ってきてくれたのはカレーでした。
”カレーはさっぱりじゃないよ〜!”と言ったところ、
”え〜!?”と相手も驚いていました。
その彼が言うには、”カレーはごはんとルーだけだから、さっぱりだよ”ということです。
よく分かりませんでしたが、それは相手にも同じだったことでしょう。
2人で大笑いしながら、深夜のカレーをいただきました。
次の日、ランチ時に同じ人物がまた、
”何か買ってきてあげるよ” と言ってくれました。
わたしは、今後こそはと思い
”じゃあ、今日はヘルシーなものをお願い!” と頼みました。
結果は、巨大なオムライスでした。
わたしはヘルシーなどと言わずに、野菜中心とか、おかずが少なめとか、もっとはっきりと具体的に言うべきだったのです。彼が言うには、”卵は体にいいよ!”ということで、よく考えて選んでくれたのだそうです。
結局2日連続で、カレーとオムライスのダブルパンチになりました。
しかし、こんな小さなことでも「当たり前」が違うのかと気づかされた、よい経験になりました。
普段の仕事の中で、生活の中で、どれだけ気づきさえもせずに、相手との「当たり前」が異なっていることでしょう。ときに真剣な場面であれば、口論にさえなりかねないかもしれません。
この”事件”は、一年の中でも特別に忙しい時期のことでした。
そんな中で思わず笑ってしまったことで、結果的に緊張感から解放されるひと時になりました。
わたしがダイバーシティはいいなと思うのは、こんな瞬間でもあります。
予想さえしていなかったことが起きて、予想できなかったこと自体が面白いのです。
違いを楽しむこと、そして笑いあえること。
平和な日々は、そんなところから始まるのかもしれません。