永遠の美少年「田中健」さんの言葉~新シリーズ『言葉のチカラ』~ |
白い歯と爽やかな笑顔。人の良いおぼっちゃん風情の残る素敵な男性。初めてお会いした時の田中健さんの印象です。1972年アイドル歌手「あおい健」としてデビューした後、1974年には「田中健」として俳優に転身。翌年の映画『青春の門』で一躍脚光を浴び、「華麗なる転身」といわれました。ドラマ『俺たちの旅』のオメダ役をご存じの方もいるかもしれません。
それからは俳優業としてさまざまな役どころをこなす一方、ケーナ奏者としても、日本屈指の存在となります。
終始にこやかな笑顔に包まれた取材現場には華やかな空気が漂っていました。
華麗なる転身を果たした田中健さんの、「運命」に導かれたエピソードから、素敵な言葉をご紹介します。
「今日は明日の準備」
毎日の努力の先にこそ、望むべき未来が待っています。
19歳でアイドル歌手「あおい健」としてデビューしてから2年後に俳優「田中健」として転身を叶えた田中さんだが、じつは本人が望んで転身と相成ったわけではありませんでした。歌手としてデビューして1年、事務所が倒産するという憂き目にあっていたのでした。思うように芸能活動も出来ない中、歌手として生きていくことを諦め、地元福岡に帰ろうと一人、部屋で荷造りをしていたときです。
一「今、何してるの?」
一本の電話がなりました。当時は携帯などなかった時代。その電話を取れたかどうかで、今の健さんが存在していたかどうかの分岐点になっていたとは、運命とは奇跡の連続だという思いを強く感じます。
その電話の主はあるディレクター。健さんが素直に帰郷するため荷造りをしていることを話すと、そのディレクターは映画監督の巨匠、斎藤耕一監督を紹介してくれたと言います。そしてその瞬間から、「あおい健」は「田中健」としての道へと舵を切ることになったのでした。
それからは主演映画にも恵まれ、俳優業でなにひとつ困ることはありませんでした。「セリフがうる覚えでも何とかなってきてしまった」と健さんは苦笑しますが、そんな彼を変えたのが上の言葉です。じつはこの言葉、健さん自身の言葉ではなく、野球の王監督の言葉。スポーツの世界では当たり前のことを、自分はないがしろにしていたと気づいた健さんは、このころから俳優業に対する取り組みにも変化が訪れます。そして、俳優以外にも視野を広げなければならない、そう漠然と考えていたと言います。もっと視野を広げなければ。それは俳優としての責任感でもありました。
そのときマチュピチュで出会ったのがケーナの音色。「こんな音を紡ぎ出せるようになりたい!」強烈な思いが湧きおこり、「この楽器を1日1時間、10年間続けよう」と心に誓います。同時に「それができなければ俳優業もダメになる」と願かけもしたのです。
あのとき立ち向かったから、今がある。
続けていればかならずできる、と信念を持つことの大切さを身にしみています。
他者にとっては何の繋がりもない「願かけ」。けれども健さんにとっては、今まで「なんとなくできてしまった」俳優から、自分の意志で歩んでいく俳優としての変革の意味もあったのでしょう。
10年という根拠のない自分への約束でしたが、その10年が、ケーナ奏者としても、俳優業にとっても大切な10年だったとわかったと言います。
体にしみこませるためには、10年掛かる。それを諦めるようでは、生涯をささげるケーナ奏者にも、俳優業にも成りきれない。そんな思いがあったのでしょう。
これまで人生に3回、俳優業を辞めようと思ったことがあったそうです。俳優業としての責任に押しつぶされそうになったとき、王監督の言葉と、俳優業を続けながらケーナを吹き続けた10年があったからこそ、立ち向かうことができました。
それを乗り越え、何かが吹っ切れたような晴れやかな笑顔がとても印象的でした。
最後に素敵な言葉をくれました。
「どんな道でも、上を向いて歩いていけば、一歩一歩、ちゃんと山頂に近づいているんですよね」
いくつになっても透き通った瞳を見ていると、運や周囲が健さんをひきたてようと集まってきた理由がわかった気がしました。