なんで短歌だったの? |
「なんで短歌だったの?」
そう聞かれることがあります。
たしかに、俳句でも川柳でも金子みすゞ的な自由詩でもよかったかもしれないのに、なんで短歌だったのか…。
実は、こればっかりは私にもよくわからないのです。
わたしに降りてきたのが57577のリズムだったとしか言えなくて(まるで巨匠な発言。汗。)、降りてきたのが、もし「575」で、それにはまっていたら俳句やら川柳やらを楽しんでいたと思うし、定型にこだわらない詩が降りてくれば、それを書いていたと思う。
たとえるなら、登山家の人に「なんで山を登るの?」って聞くと「そこに山があるから」って答えるって言うじゃない?(ほんとなのかな?ボルダリングやっている人に聞いたら、やっぱりそこに壁があるからって言ってたから、きっとそうだよね?笑)たぶんそれと同じ感覚なんだと思います。
まあ、短歌の場合は「そこに短歌があるから」とか言った日には、「いや、ないですけど」って言われてしまうのがオチで使えないのですけど、あえて言えば、「そこに自分の感情があるから」ってとこでしょうか。
社会人になってからの数年間のブランクを経て、またなんとなく短歌を詠み始めたとき、ああ、わたしはこうやって感情を言葉にしていくことで、自分のなかに押し込めてしまっていた自分の感情や世界観を解放してあげてるんだなって、そうやって心のバランスを保ってるんだなって思ったことがあって、短歌は、癒しであり、励みであり、救いなのだと、少し大げさだけどそんなことに気づいて、コーヒーをぐぴってひとり飲んだりしてました。
ブランクだった数年間っていうのは、常に理想の状態であることを目指してばっかりで、実は辛いんだとか、実は悲しいんだとか、実はとっても嬉しかったんだとか、そんな単純な感情さえもキャッチできないくらいに心がおしこめられていて、とげとげしいナイフのようで、知らず知らずに自分も他人もグザグサ刺し続けるようなそんな生活をしていた気がします。なんだかほんとの自分でない何かになっていたような気さえするのです。
短歌を詠んじゃったりすることで、自分の中にあった感情が、言葉という衣をまとって、わりといい感じに世の中デビューする様は、本当に気持ちがいいものです。わたしが主宰している「短歌詠んじゃったりしようの会」では、それぞれ詠んだ短歌を読みあげたりするのだけれど、世の中にデビューした数々の感情たちが入り乱れて、なんだかほんとに楽しくなるのです。
なんで短歌だったの?っていう質問には、たぶん一生うまく答えられないわたしですが、短歌ってそんなにいいの?っていう質問にはきっとこれからもっと上手に答えられるようになっていくと思います。
カサカサとしていく心をふんわりと包んで食べる雪見だいふく
(雪見だいふくおいしかった!!!ふんわり感がたまらない!!!っていう歌です。笑。)
あなたの心が豊かでありますように。
十詩子