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関口 暁子 文筆家/エッセイスト doppo
大変なとき、嬉しいとき。ときに支えられ、ときには今以上に輝きを増すことができる。「言葉」というものは不思議な力を秘めています。今、私たちの目の前のステージにいる「あの著名人」も、誰にも知られず努力を重ね、感謝を繰り返し、ここまで生きてきたのです。 彼らがその長い「活躍人生」の中で支えに…
あなたに届け、輝く人の、輝く言葉(新シリーズ) キャリアアップ 2016-12-21
あなたを強くするローマ人の言葉⑫~塩野七生『ローマ人の物語』より

いよいよ12月です。子供たちはサンタクロースの持ってくるプレゼントにそわそわ。大人たちも街がクリスマスのイルミネーションに煌めく光景を見て、なんとなく浮足だったり、あるいは「もう一年も終わる」と察して焦りだしたり。

どちらにしても、うきうきそわそわ、そんな季節ですね。

クリスマスにツリーを飾るのは、キリスト教の風習。そう思っている方は多いのではないでしょうか。ツリーをこの季節に飾るのは、じつはキリスト教伝来前の、ドイツの土着の宗教の習わしです。暗いドイツの冬に、青々としたモミの木。ゲルマンの民はこれを生命力の象徴だと感じました。自然崇拝だった彼らはこの生命力あふれるモミの木を夜空に見立て、星をちりばめたのでした。日本の神道が、御神木にしめ縄を飾るのと同じような気持ちだったのかもしれません。ドイツやローマ(イタリア)、ギリシャなどヨーロッパは古来から自然崇拝や多神教といった宗教を重んじていました。古代ローマ人の考え方が日本人にしっくりくるのは、ともに多神教を源とする国民性だったからだと思います。

さて、今回のご紹介する12巻のタイトルは「迷走する帝国」。一神教であるキリスト教伝来により、古き良きローマ帝国は、じわじわとその良さを失われていきます。混沌とした国に広がるのは、新しい宗教にすがりたくなる国民の心情・・・。頼りになるリーダー(皇帝)が長らく不在になれば、その気持ちもわからなくもありません。

「誇り高きローマ人」はこの時期、自らの国を誇る気持ちを失っていきます。そんな中でこそわかる人間の皮肉。そのアイロニーを突いた言葉をご紹介します。

 

人間はタダで得た権利だと大切に思わなくなる。

 

カエサルの時代から、ローマ帝国は戦で負けた人たちを属州化してきましたが、カエサルの素晴らしいところは、取り決めを守っている国に対しては一緒にローマを作り上げる「同志」として、さまざまな権利や地位を与えていたことです。おかげで、属州国とされた国の人々はローマに協力的で、兵を出したり防衛を手伝ったり。時には有力者の子息の家庭教師になったり、幅広く活躍させていました。その後皇帝を継いだ人たちも、カエサルのやり方を継承し、「占領」とは違う形で属国を増やし、ローマは「平和的」に拡大していったのでした。(戦をすること自体は平和的ではありませんが)

しかし、「ローマ市民権」を得ることにはさらに特別な条件があり、それをクリアしてようやく手に入れるもの。だからこそ、「ローマ市民権」を持つ属州国の民はそれを誇りにおもっていたのでした。ところが悪帝の名高いカラカラ帝は、属州国のすべての民に無条件でローマ市民権を与えました。人気取りのつもりだったのでしょう。しかし、「空気を有難がらない」というのと同じで、当たり前に思われたものは、その価値を失ってしまいます。同時に、本来のローマ市民や、ローマ市民権を得ていた人たちからしてみても、だれもが手にしていたのでは、既得権としての魅力は失われます。結果、「ローマ市民であることの誇り」を失い、ローマの輝きも同時に失うことになりました。

日本でも、問題になっていてもなくならない「ばらまき」も同様ですね。無条件に与えられたものに価値を失うだけでなく、「タダ」でもらったものを他者の力によってふたたび失うと、さらに苦情の種にもなります。国民はタダに弱いものですが、タダと言えば人気が取れると思ってしまう権力者もまた、弱い人と言えるのでしょうね。

「タダより怖いものはない」昔の人は言いましたが、「タダ」が怖いのではなく「タダ」という仮面をかぶった魔物にとりつかれる人間の強欲さや傲りが怖いのです。

 

肉体の自由は奪うことができても、精神の自由までは奪うことはできない。そして、精神の自由が誰にでも奪うことができないのは、それが自尊心に支えられている場合である。

 

心に芯のある人は強いですね。私は直接に間接に、さまざまな人の生き方を見ては、自分もそうありたいと思い、できない自分と葛藤することがあります。

体の不自由になった病身の人が、心は穏やかに晴れやかに、いつも前向きに何かにチャレンジしたり感動したりしている。パラリンピックの選手が、日常の生活さえも健常者よりも不便なはずなのに、アスリートのトップを目指して日夜練習に励む。こういう姿を思い浮かべると、上記の言葉も心に沁み込んできます。彼らの心は自尊心に支えられ、揺るぎのないものがあるのでしょう。そうでない人は、ちょっとしたことで体に自由が利かなくなると、卑屈になったり、前を向けなかったりして、心まで自由を失っていくのです。しかしこれは普通の人であれば、よくあることです。そういう人を責めているわけではありません。

ずいぶん昔にさかのぼりますが、筆者は中学高校と陸上競技部に所属する短距離選手でした。目標は全国大会でしたが、結局はその前の関東大会にすら出場できずに、現役生活を終えました。タイムが一番よかったのは高校二年生のとき。調子が良ければ県大会を突破し、関東大会を目指せるかも。そういう期待もありました。ところがそんなとき、足がズキズキと痛み出しました。気がつけば、スパイクが入らないほど腫れています。病院に行くと、足の甲の「疲労骨折」。現役選手として一番乗っていた時期に、故障。元気に練習に励む仲間の姿を眩しく見つめながら、レースに出られない日々が続きました。

そんなときに頭をよぎるのは焦り。ライバルはこの間にどんどん練習して速くなっているはず・・・。すると仲間を応援する気持ちよりも、卑屈になる気持ちが頭にもたげてきます。

精神が自由でないというのはこのことでした。自分が走れない。そのことに縛られ、それ以外のことが考えられなくなってしまっていたのです。

卑近な例で恐縮ですが、多くの人の場合、こんなふうに体と心は一心同体です。ところが、精神的に自律している人は、肉体が蝕まれようと、自由を奪われようと、心はつねに朗らかで前を向いています。いつしかこうありがいと願いつつ、なかなかできない自分がいますが、いつしかその境地に立とうという思いだけは持ち続けたいと思います。

最後に、素晴らしい少年の話をして、締めくくりたいと思います。私の住む鎌倉市に、男子だけの進学校があります。地方からこの学校を目指してくる子供がいるくらい、勉学はもちろん教育全般の評価が高いのですが、ここに在籍していた男の子のお話です。彼はなんと4歳から作曲を始めたそうです。お母さまいわく「他の子が絵を描くのと同じように、作曲していた」というのです。天才児とは彼のことを言うのかもしれません。地方に住む彼ら一家でしたが、中高一貫のこの学校へ入学。芸術にも勉学にも才のあった彼ですが、体は病に侵されてしまいました。ついに学校へ通えなくなるほど悪化し、入院生活も辛いものになりました。そして、16歳という若さでこの世を去ってしまったのです。才に溢れ、健康だったはずの少年が、ある日を境に動けない体になり、どんどんその体は蝕まれていきます。にもかかわらず、彼はこの間も作曲を続けていたのだそうです。数百にも及ぶ彼の楽曲はCDとなりました。鎌倉市はこの少年に賞を授与することを決定。先日お母さまが代わりに授賞式に臨まれました。

体がこの世を去ろうとしているその時にも、心はけっして絶望しない。そして自分の持てる力を最期まで発揮し、遺された人々に感動を分け与えてくれたのです。

「精神が自尊心に支えられている」ー。この言葉は、この少年にこそふさわしいものと言えるでしょう。少年の作った楽曲が、多くの人の心で生き続けますようにと願ってやみません。


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