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関口 暁子 文筆家/エッセイスト doppo
大変なとき、嬉しいとき。ときに支えられ、ときには今以上に輝きを増すことができる。「言葉」というものは不思議な力を秘めています。今、私たちの目の前のステージにいる「あの著名人」も、誰にも知られず努力を重ね、感謝を繰り返し、ここまで生きてきたのです。 彼らがその長い「活躍人生」の中で支えに…
あなたに届け、輝く人の、輝く言葉(新シリーズ) キャリアアップ 2016-11-16
あなたを強くするローマ人の言葉⑪~塩野七生『ローマ人の物語』より

今年の秋は短かったですね。気がつけば、もう冬の入り口に立っているかのような今日この頃。この秋は「長袖シャツ一枚」の陽気の日がとても少なかったように思います。

読者のみなさん体調など崩されてはいないでしょうか。さて、『ローマ人の物語』も、残すところあと5巻となりました。今回ご紹介する第11巻のタイトルは「終わりの始まり」。世界が称賛した「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)も終わりを告げ、ついに波乱と破綻の幕開けです。

ここで、「5賢帝、最後の皇帝」と呼ばれた皇帝、マルクス・アウレリウスが登場。彼は『自省録』と名付けた自著にて、素晴らしい言葉を残しています。先々帝ハドリアヌスが先帝アントニウス・ピウスに託した2人の兄弟のうち、兄がマルクスでした。アントニウス・ピウスはハドリアヌスの想いを受け止め、次期皇帝にマルクスを指名。最後の賢帝時代が始まりました。マルクス・アウレリウス亡きあと、息子が跡を継ぎますが、12年の治世の後、愛人とその夫(自らの奴隷)に暗殺され、その後は内乱の時代へと突入するローマ帝国。

今回は、最後の賢帝、マルクス・アウレリウスの崇高な言葉をご紹介します。

 

自分自身の性格に対しては常に警戒を怠らず、誤った方向に向かいそうに感じたら、ただちに矯正する勇気をもつこと。

 

うーん。と唸ってしまう言葉ですね。自分自身の性格に警戒するというのはなかなかできるものではありません。私自身、学生の頃は仲の良い友人に「自己弁護士」と不名誉なあだ名をつけられたことがありました。それは私自身がよくわかっていたので、笑うしかないという状況ではあったのですが、そうはいってもなかなか治せるものではありません。自分の行動に言い訳をしない。言葉で表せば、「たったそれだけ」に思うことが、当人にとっては難しいのです。それでも自覚があればこそ、自分の性格の良くない部分も治せる可能性があるというものですね。

賢帝と呼ばれたアウレリウスは、厳格な哲学である「ストア派」を学んでいました。この知性と生来の理性があったからこそ自己に厳しい言葉と行動ができるわけですが、そうではない私のような凡人には、やはり気の置けない友人や家族から、自分の性格についてよく分析してもらい、客観的な意見を聞いておくことが必要だったのです。

「誤った方向に向かいそうに感じたら」とアウレリウスは言いますが、なかなか自分では気づかないものです。あるいは、気づいても気づかないふり、といったほうが近いのかもしれません。ここでもやはり友人や家族の力を借りて、その言葉に耳を傾けることが必要です。筆者は会社員時代、100人の社員の人事考課を担当する役員を務めていました。一人ひとり面接をするだけでなく、日ごろからたくさんの社員と会話をするように心がけてきたつもりです。その後フリーランスになってからも、いろいろな立場や年齢の、いろいろな職業の男女からアドバイスを求められたりしてきました。(それは仕事の内容であったり、病気のことであったり、恋愛のことであったりするのですが)さほど長く生きていない人生でも、比較的多くの人の悩みを聞く立場に恵まれていたと思いますが、そこで強く感じたことが一つあります。

「人の意見に聞く耳を持たない人は、結局、愚痴や不満の絶えない毎日を送っていて、幸せそうに見えない」ということです。(もしかしたら本人は幸せかもしれないので、「見えない」としました)

アウレリウスは、自分の心を怜悧に見つめる目を持ち、それを客観的に判断し、コントロールする理性を持っていました。しかし私を含め、「賢帝」ではない多くの人たちは、ときに、その「怜悧な目」「客観的な判断」は、他者に任せる必要があるのです。欠点を指摘されるとだれしも嫌なものです。でも、それを欠点とは思わず、一つの特徴と捉え、その特徴をうまくかじ取りするにはどう方向性を変えれば良いか。そう考えればいいのです。もちろん、指摘してくれる大切な相手には、良いところもたくさん指摘してもらいましょう。悪口の言い合いにならないように、高め合うためにお互いが見つめ合っている。そんな実感ができたら、素敵ですね。

さて、私の中にいる「自己弁護士」ですが、なかなかしぶとく、指摘されてから20年たった今も居座り続けています。その代わり、弁護士に負けない「敏腕検事」を心の中に雇うことにしました(笑)。そして今でも、手つかずの原稿を前にしては、ああでもない、こうでもないと互いに牽制しあいながら、亀の歩みで日々過ごしていますが、こうして自ら書き出した文章に、背中を押されて、ようやく重い腰を上げることができそうです。年末までにやらなければならないことは、山積みですから(笑)。

 

いかなる怨恨も忘れること。そしてわたしに対して怒りをぶつけたり、屈辱を与えたりした人も、その人がそれを後悔していると分かるや、ただちにこちらにも和解のつもりがあると示すこと。

 

これも賢帝アウレリウスがストア派の哲学から学んだことです。これを読めば、彼が賢人であり、賢帝であったことがよくわかりますね。皇帝という立場にあれば、さまざまな恨みや嫉みを買い、怒りの矛先にされ、それを屈辱という形で投げつけられる・・ということはあるはずです。そういう立場であってもなお、このように思いをいたすことができるというのですから、さすがです。

さて、賢帝でない私たちがこのような態度で人生を全うできるか。とても悩むところです。まして私には、本当に人を地の底まで恨む、というような経験もありません。自分の人生に、今のところは大きな悲劇がないために怨恨もなければ、誰もが羨むようなものを持っているわけでもないので周囲からあまり嫉妬されることもないのが、正直なところです。

でも、小さな出来事を拾い上げれば、このような感情に巻き込まれたことはまったくないと言えば、嘘になるかもしれません。多くの人は、大きな悲劇や事件に見舞われた際のことよりも、この「小さなマイナス感情」とどう向き合うかが、日々の生活で重要な課題なのではないでしょうか。

たとえば、何かの集まりに、自分だけ呼ばれなかった。会社で、人前で上司から叱責され恥をかいた、恋人に振られた、この前まで仲良しだったと思っていた人が急に冷たくなった、夫が話を聞いてくれない・・・。些細なことでも、積もり積もれば当人にとっては重たい出来事に変わります。その重さに比例して自分の「怨恨」が溜まっていけば・・・。

私たちの人生は、恨みつらみだらけの人生になってしまいます。何度も言うようですが、私たちの多くは「賢帝」ではありません。自分の心から「怨恨」を消したいと願っても、一度にできないのは当然です。一つひとつ、できることから自分の心の憎しみや恨みをなくしていく努力を続けていきたいものです。

最近、読んだ本で面白いものがありました。日本の神道について書かれたものですが、毎日毎日、自分の身に起きたことをお祓いするというのです。面白いのは、悪いことだけではなく、良いこともすべて祓い、「ゼロ」ベースにしていくということ。日々まっさらな気持ちで過ごしていくと、人生が変わりますよ、というような内容でした。私自身思っていることと似ていることもあり、とても納得のいく本でした。

日本には昔から「言霊」という言葉がありますね。口にした言葉、心に描いた言葉には、魂が宿ります。悪い言葉遣いや人の悪口、暴言は、その人の性格や表情を醜くし、次第にその人の人生が「悪いこと」でかたどられていきます。「あの人、性格悪そう」「あの人、きっといつも不平不満を言っていそう・・」。逆に「いつも穏やかな生活をしているんだろうな」「あの人、いまとても幸せなんだろうな」誰かの顔を見ただけで、そう感じる・・という経験、みなさんにもあると思います。そしてその直感はたいていの場合は当たっているのです。

そしてそれは、他の誰でもない、あなた自身にも当てはまるということを、改めて思い起こしたいと思います。

もしかしたら、かの「賢帝」も、このように宣言しなければ実行しづらいほど、怨恨という感情と必死に戦っていたのかもしれませんね。

賢帝もまた人。そう思えば、賢者でない凡人の私も心穏やかに生きるために日々のマイナス感情と対峙する勇気がもらえます。


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