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■ 東京ウーマンインタビュー
北朝鮮、帰国から22年を経て ~解決に向けて今、語ること~
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北朝鮮、帰国から22年を経て ~解決に向けて今、語ること~

北朝鮮、帰国から22年を経て ~解決に向けて今、語ること~
監視下での暮らし、その中で支えとなった、“絆”とは?
曽我さんと一緒に連れ去られた母・ミヨシさんはいまだに行方不明のままで現在、93歳になります。また、2025年2月、有本恵子さんのお父様である明弘さんが逝去され、横田めぐみさんの母、早紀江さんは帰国を果たせない拉致被害者の親世代のたったひとりの存在となり、時間の猶予がない状況となっています。
ある日、普通に暮らす1人の女性が突然、母と共に何者かに連れ去られ、他国にたどり着き、一緒に連れ去られた母の姿は無い…。未知なる場所で過ごす恐怖と言い知れぬ寂しさと不安…。常に監視下に置かれる不自由な環境で、生命の危機を感じるほどであろう恐怖と絶望の中で生きる支えとなっていたこととは…。北朝鮮の地で曽我さんが見てこられた景色とそうした中で何を手掛かりに生きてこられたのかを聞きました。
(本インタビューは2024年10月、横田めぐみさんの60歳の誕生日のコンサートでインタビューをさせていただいたものです。)
Q:曽我さんは昨年まではテレビでの取材をあまり受けていなかったように思えますが、最近になって積極的に取材を受けるようになったのはなぜですか。
曽我さん:佐渡市の職員をしていますが、それまで高齢福祉課の方で介護施設の仕事をしていたのです。仕事上でなかなかこうしたことに時間をとれなかったこともありますが、新型コロナウイルスの影響で人がたくさんいるところに出るのを控えていたこともあります。仕事の内容が変わり、取材や講演に力を入れやすくなり、取材をお受けするようになりました。

というのも、拉致問題が全く進展せずに、ただただ時間だけが過ぎてしまい、日本にいる拉致被害者のご家族の方も年々お年を召されている…。横田早紀江さんは89歳、有本恵子さんのお父様も96歳(2025年2月ご逝去)ということで、時間がないということをしみじみ感じるようになりましたし、私の母も12月(2024年)で93歳になるのです。一日一日、どう生活しているか大変心配でもあり、報道機関を通して少しでも全国の皆さんに拉致問題のことを知っていただきたいという想いがありました。
一日も早く解決していかなければいけない、という思いもありまして、4月から総務課の「拉致被害者対策係」で職員としてお仕事をすることになり、今日に至っているのです。

母・ミヨシさん
Q:異動の希望は曽我さんの意志ですか。
曽我さん:私の気持ちも元々あり、市長さんはじめ佐渡市の方々にお話はしていたのですが、ずっと検討いただいて、4月から今の仕事をする運びとなりました。
Q:今日(10月5日)は横田めぐみさんが60歳の還暦のお誕生日ですが、佐渡から新潟まで来て、今日のコンサートをどんな思いで参加されましたか。
曽我さん:横田めぐみさんの同級生の方々に何度かお会いしているのですが、一貫して活動し続けておられる同級生の方の大変懸命な気持ちもわかっていましたので、お声がけを頂いた時、一緒にこの時間を過ごしたいなと思いました。参加するのは今年で3回目になります。
Q:拉致されたときについてのことを教えてください。
曽我さん:拉致をされた当初は、これから一体どうなってしまうんだろうという恐ろしさ、恐怖と不安でいっぱいとなり、そして寂しさが募り、恐怖と寂しさの中を交錯していました。何より一番は、一緒に拉致された母(ミヨシさん)は今どこでどうしているのだろうというのが一番心配でした。
拉致をされて数日後に、横田めぐみさんと招待所でお会いしたのですが、すぐに一緒に暮らすことになったのです。1~2か月一緒に暮らし、しばらくしてまた別れて暮らし、また一緒になって何か月か一緒にいて…の繰り返しでしたが、合わせると一緒に暮らしたのは通算で8か月間でした。
最初は希望もなくひたすら不安でした。日本に帰れるのかな、とか色々と考えていましたが、めぐみさんとしばらく一緒に生活をすることができて、そのことがとても大きな安心感に繋がっていったのです。
Q:めぐみさんはどんな女性でしたか?
曽我さん:私といた時には、普通に話をし、テレビを見て笑い、他愛ない話をして笑いあい過ごしました。一緒にいるときはとても楽しかったです。めぐみさんはとても頭の良い方だったので、勉強も私が教えてもらったというところもありますし、朝鮮語や「回想記」と言って、北朝鮮の歴史のようなものも教えてもらっていました。
Q:めぐみさんのご様子はいかがでしたか。
曽我さん:私といるときには泣いている様子もなかったし、お互い、勉強しながらテレビを見たり、本当に普通に生活をしていたのでした。1つの部屋の中で一緒に暮らしている形でした。

横田めぐみさんの誕生日に講演
Q:めぐみさんが日本に帰国されたらどんな声をかけたいですか?
曽我さん:まずはじめに、『遅くなってごめんね』と声をかけてあげたいです。めぐみさんの存在は自分にとってとても大きく、今でも北朝鮮の地で生きていることを信じてやみません。母と共に帰国ができることを望みます。
Q:北朝鮮での生活について聞かせてください。拉致され、船で海を渡り、招待所に到着して暮らす…。そうした中で現地の人たちとの交流というのはあったのでしょうか。
曽我さん:北朝鮮では自由というものは全くなく、「招待所」という場所の中で生活をしていたのですが、どこかに出かけるときには、必ず指導員が一緒についていきます。だからどこかで誰かに会ったとしても、現地の北朝鮮の人との交流自体を阻止されていました。近くで指導員にずっとマークされ、常に監視の目にされていたのです。ですので、一般の人たちと自由に話をしたり接触したりという事は全くありませんでしたね。
Q:北朝鮮は飢餓がニュースになることもよくありますが、街の様子はいかがでしたか。
曽我さん:町中を行ったり来たりすることもなく(出来ず)、店にも出かけるときも車で行って、必要なものを買ったらすぐ帰ってしまいます。必ず監視人(指導員)が同行していたので、街の中の様子もよくわからないのです。また、子どもたちは現地の子たちと一緒の学校に通ってはいましたが、その学校に行くことも親である私たちは許されていませんでした。
Q:2002年、日本に帰国した時のお気持ちを聞かせてください。
曽我さん:まさかこんなに日本中が注目しているということ、大変な問題だったんだということを知らなかったので、報道陣の数にも注目度にも本当に驚きました。一時帰国と聞いていたので、まず家族に会い、友達など会える人に会って、今までのことを話して…と考えていました。でも、母親も拉致されてから行方不明であることを改めて聞き、本当なのかを自分の目で確かめたいというところもありましたし、まわりのひとに「(起きていることが)どういうことだったのか」ということも聞きたいと思っていました。
日本に永住することを言われた時、北朝鮮にまだ家族がいるからどうしたらいいんだろうという葛藤があり、大変悩みました。徐々に時間を経て、政府の方とのやりとりの中で、会えるかな…という確信が持てたというか、だいぶ心が落ちついてきたのです。

Q:曽我さんは、北朝鮮の国の監視下に置かれ、常に自由のない暮らしの中で、何が支えになっていたのでしょうか。
曽我さん:北朝鮮に来た時には、横田めぐみさんが一緒にいてくれたからということがありましたが、めぐみさんと離れてから一番、大きな支えになっていたのは家族です。一緒にいたから乗り越えられたということがたくさんありました。
Q:夫のジェンキンスさんは2017年、佐渡の地でお亡くなりになりましたが、出会いについて聞かせてください。
曽我さん:最初は、英語の勉強をしましょうという名目で初めて会いました。私はあまり英語が好きじゃなかったので勉強する気はなかったのです。最初は(ジェンキンスさんを)英語の先生とは言っていたけれども、最初から結婚前提だったのかもしれません。
Q:でもジェンキンスさんはひとみさんのことをすぐに気に入った・・・。
曽我さん:(笑)。そのようですね。

Q:曽我さんは、ジェンキンスさんのことはいつ好きになったのですか?
曽我さん:私の方は、だんだんと…でしょうかね(笑)。

夫・ジェンキンスさんと
Q:“解決に向けて”というところで、日本国内ではどんな方法があると考えられますか。また、国内も然りですが、海外国際社会への期待は?
曽我さん:国内はまだ拉致問題が解決していないので、風化を防止するため、ひとりでも多くの人たちに知ってもらって、「まだ解決していない」ということをしっかりと伝えていかなければいけないと思っていますし、国民の人たちには「自分ができることは何なのか」ということを考えていただきたいです。
署名やブルーリボンをつけること…。ブルーリボンは必ずつけて頂くということでもないですが、「わたしたちは、拉致被害者のことを忘れていないよ、1日も早い解決を願っているよ」との意思表示になることを知ってほしいです。
Q:横田早紀江さんは以前、「定年後は皆、第二の人生で楽しむことをしているのに、私たちは常にこうして、活動をしている人生なのよね」とおっしゃっていました。本当に大変なことです。「北朝鮮の拉致被害者」として、活動をずっとし続ける事について、どういう気持ちがありますか。
曽我さん:やはり、拉致のことがなければ自分たちがしたいこと、たくさんあったと思います。でも、自分の娘(横田めぐみさん、有本恵子さん)の為に、どうしてもこの活動だけは、帰ってくるまで止めることはできないとずっと想ってご家族が日本で活動してこられ、皆さん、まわりの方々が旅行に行っているときにも、いろいろな場所で講演や署名活動をしているわけです。
横田ご夫妻もそうですし、被害者のご家族の皆さんのご活動があって、そのおかげで私たち5人の帰国が叶ったわけなのです。私はそう思っているので、とてもありがたいと感じています。
拉致被害者として被害者家族として、母の帰国を願って活動しています。そして、今、母がどんな状況におかれているのかを知りたいと思っています。親世代が早紀江さん一人になった今、次のバトンを渡されたのだと感じています。母を含む拉致被害者が全員の帰国を願って、できる範囲ではありますが、救出活動を続けて行こうと思っています。

Q:お嬢さんたちにお子さんが生まれました。お嬢さんたちにはこれからどんなふうに生きてほしいと思いますか。
曽我さん:帰国当初は、子どもたちは日本語もわかりませんでした。国や新潟県、佐渡市の皆さんに支援をいただいて、その中で言葉のこと、生活のこと、沢山勉強もさせていただいたし、社会で必要なことも教えていただきました。今、彼女たちが社会人として生活ができているのはひとえにご支援ご協力をしていただいた関係者の皆様のご尽力のおかげであると大変感謝しております。これまでのお力添えに報いるためにも一人の社会人として頑張ってほしいと思っていますし、昔のことにあまりこだわらずに今は前向きに明るく生活してほしいと願っております。

ご家族で
Q:若い世代の方々へ、メッセージをお願いします。
曽我さん:北朝鮮拉致問題を知らない若い方々がたくさんいらっしゃると思いますが、こんなに長い時…半世紀近く拉致問題が解決していないということを、はじめて聞く人たちは『それって昔話ではないの?』『過去のことでしょう』というふうに完了形の出来事として思われる方もいるかもしれません。でも、現在も続いていて、北朝鮮にいる被害者の方も苦しんでいるし、日本で被害者を待つ家族も毎日苦しい思いをしながら待っている、ということをこれからも伝えていきたいです。
曽我さん、ありがとうございました。
今回もご協力いただきました横田めぐみ様の同級生の皆様、心よりありがとうございました。



(PRコンサルタント・ライター)
ライター、広報のPRアドバイザリー。メーカーで秘書職の後、週刊誌アシスタント、テレビ(日本テレビ放送網)、ウェブ等のメディアで記者・ディレクター職を9年。4年の金融営業の後、PRパーソンとして独立。社会・経済系の特集の制作経験から、メディア経験とビジネス経験の両面を生かし、ニュースの発掘、ストーリー性を生かしたPRを得意としている。2023年11月ESPRIT ORIENTAL合同会社設立。