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どこに今自分がいることが一番社会に貢献できるかを自分軸に。 菅野志桜里さんインタビュー

どこに今自分がいることが一番社会に貢献できるかを自分軸に。
菅野志桜里さんインタビュー

2009年衆議院議員として国政に進出後、子育て支援や待機児童問題に取り組み、2016年「保育園落ちた日本死ね」の匿名ブログを国会で取り上げるなど、常に弱い立場の人に寄り添い続ける菅野志桜里さん。憲法審査会のメンバーを務めた他、現在は弁護士として活動する傍ら人権団体やメディアの運営等と併せ様々な社会貢献に取り組んでいます。

幼少期のミュージカル「アニー」との出会いから華麗なキャリアの転機、現在進行中のウクライナ問題まで多様なテーマについて、赤坂のオフィスでお話を伺いました。

片岡:国会中継やニュースではいつも視させて頂いていましたが、“存在感”があるせいかもっと大きな方だというイメージが・・・(笑)

菅野:よく言われます。態度が大きいから身体も大きいというイメージが。(笑)

片岡:取材をさせていただこうと思ったきっかけというわけではないのですが、武蔵野市にある聖徳学園小学校に通われていたのですよね?

菅野:はい、そうです。

片岡:すぐお隣といいますか斜向いの赤十字病院で50年ちょっと前に生まれまして。

菅野:ええ!?

片岡:すぐ近くの小学校に通っていたので、同じ通学路を通っていました。これは私の勝手なのですが、ほぼ同じ時代に同じ街の空気を吸っていたという親近感があります。

菅野:駅前のイトーヨーカドーの手前にピザハットがあって、ツツジがパアっと咲いていて、私もあの武蔵境駅から学校に向かいがてらツツジを当時はね、摘んでは吸って。

片岡:誰もが似たようなことを当時はしていました。

菅野:はい、していました。

片岡:こういう話ってなかなかお聞きする機会がありません。大抵は堅い話や政治の話が多いです。

菅野:そうですよね。議員を卒業して会う人が変わり、話すテーマも少し広がりました。自分にとって今が新鮮で嬉しいですね。

アニーに全力で向き合った少女時代

片岡:確かお父さんはお医者様だと聞いたことがあります。聞き方が悪いかもしれませんが、そういう意味では“お嬢様育ち”だったのですか?

菅野:私は仙台で生まれて、小学校に上がる時に上京しました。本当にお風呂もシャワーもないような家からのスタートでした。当時父はまだ医者になっていなかったので両親は経済的に苦労していたと思います。

片岡:お父様はいつお医者さんになられたのですか

菅野:私が小学校1年生に入学する時に父が医学部に入学したので、ちょうど同じ日が入学式で、小学校と医学部ですと同じ6年間ですよね。だから同じ年に“卒業”をしました。私の中学入学と同時に父は医者になったんです。今でこそ両親はそれほど不自由ではない生活をしていますが、学生結婚でしたし当時は大変だったと思います。

片岡:ご自身は昔からお勉強などは“やればできる”タイプでしたか?

菅野:自分で言うのもおかしいですが、元々割と努力家で優等生タイプだと自分では思っています。小学校5年生6年生でアニーというミュージカルに出会いました。ちゃんと目標達成しないと、中1で2年目のアニーをやらせないという親との厳しい約束があったので、真面目な上にさらに“ニンジン”をぶら下げられて(笑)一心に走っている感じでした。

片岡:お母さんはステージママだったのですか?

菅野:いや逆ですね。そういうエンターテイメントの世界はむしろ私がやりたくて、親はどちらかというと子供時代から芸能界に入っていくということには抑制的でした。

片岡:その後も芸能方面に進むことは考えなかったんですか?

菅野:アニーのオーディションを受けたのは芸能界に入りたかったわけではありませんでした。「日本でアニーを上演するならアニーをやりたい」、「自分がアニーをやりたい」という、「アニーありき」だったんです。ですから、アニーを卒業した時はとても悲しかったです。舞台の魅力はすごく感じていましたけれど、だからといって芸能界に入っていこうというのは自分の中にはなかったです。

片岡:若い頃の一つの通過地点というか、思い出で終わるという感じ。

菅野:そうですね。

奪われた声の代弁者を目指し

片岡:大学に入られて、その後がまたすごい。検事になられました。

菅野:アニー卒業は一つの通過地点ではあったのですけれども、その喪失感みたいなものがありまして、中三、高校時代を通じて心に空洞が開いたような、惰性で中学高校生活を送っているような思いがありました。

検事を目指すようになった一つの大きなきっかけは、当時、刑事裁判を傍聴する機会があって、その法廷で声なき声、奪われた声の代弁者としての検察官がとてもかっこよく感じられて、検事になろうと司法試験を受けました。

要は、アニーをやりたくてオーディションを受けたのと同じような感じです。検事になるために司法試験の挑戦を始めました。

片岡:弱いものの味方という想いは、その頃からずっと共通で続いているんですね。今でもどちらかというとそういうリベラルな視点でいらっしゃいますよね。

菅野:奪われた声の代弁者でありたい。みんながやっていることはもう他の人にお任せしてもいいと思っていますので、自分は置き去りにされた人の役に立ちたいという思いは一貫しています。

片岡:お恥ずかしながら…女性の検事というと女優の眞野あずささんと名取裕子さんぐらいしか目に浮かんでこないんですよね。(笑)実際はどんな感じの職場ですか。やはりそこには男女差や仕事のしにくさみたいなのはありましたか?

菅野:検事時代はそういう、女性に課せられた生きづらさみたいなものには割と鈍い方だったかもしれないです。当時は途中で一旦結婚したとはいえ子供もいなかったですし、自分の持てる生活の多くを仕事に打ち込むということが体力的にも、ライフスタイルとしても可能でした。とても働きがいを感じていたので、あまり構造的なものには気づかないぐらい検事という仕事に打ち込んでいました。

片岡:忙しくはあったけれど、そこまで気が回らなかったということですかね。

菅野:検事という職業そのものにジェンダーの不平等さみたいなものをあまり感じたことがなかったのだと思います。ただ、もし当時、自分自身に子供がいて、いくら家族や社会からのサポートがあっても、構造的にどうしても母親に課される負担は大きかったと思います。もし子供がいたら、職業人としての女性のハードルを感じていただろうとは思います。

ただ、検事には検察事務官がいて、国会議員という仕事には議員秘書がいて、良くも悪くもその職業を含めてサポートしてくれる、仕事上のパートナーがいるという職業ではあるんです。様々な組織あるいはフリーランスで働いている女性と比較すると、そうしたサポートの厚みに恩恵を受けられる職業だと思います。

検事から国会議員へ。転機となった乙川の事件

片岡:その後、検事を辞めて選挙に立候補されました。どういう気持ちの変化だったのですか?

菅野:私は本当に政治の世界には疎くて、選挙の投票の一票で政治に関与するぐらいのことしかやってなかったんですけれども、東京地検、千葉地検、そのあと愛知県の岡崎支部と、3年目でようやく独り立ちして、重大犯罪に対応していくような経験もして、その犯罪を通じて社会の構造的な問題みたいなものに向き合わざるを得なくなったわけです。

きっかけになった事件があります。岡崎に乙川というすごく綺麗な川があって、そこは本当に春は桜の花で、夏は花火が打ち上がって綺麗な場所です。私はそこが通勤経路で、自分で運転して乙川沿いを行き帰りしていました。ある時そこの乙川沿いで、1人でテント暮らしをしていた年配の女性が殺されるという事件があって、その担当をしたんです。

犯人は中学生3人と無職の男性1人。そこから浮かび上がる子供の教育の問題や失業や雇用の問題など、当時は「日本一元気な愛知」って言われるぐらい経済は元気だったんですよ。とても勢いがあった。それでもなお、そうやって60歳を超えた女性が福祉に取り残されている。青テントの下で命を落としたという福祉の問題に行き当たった。

検事という仕事はとても魅力的で、ようやく一人前の検事として自立していく時でした。けれども、「その原因に切り込んでいく役割も大事だ」と気付かされました。それがちょうど2007年ぐらいです。

2009年の政権交代前。もしかしたら民主党が躍進するかどうか。自民党が解散に踏み切れずに膠着状態の時に愛知県の民主党公認候補の公募がありました。決断には1週間もかからなかったと思います。

片岡:「辞める」という決断と「やる」という決断を同時にいないといけません。

菅野:二兎は負えないので、検事と政治家は構造上。

片岡:民主党を選んだのはたまたま民主党の公募があったからですか?

菅野:そうですね。自分自身が二大政党制っていうものの可能性を信じていて、少なくとも有権者としては常に野党に投票してきたということと、先程のような犯罪を通じて自己責任が通用しない世界、セーフティーネットの整備を怠ってきた結果、社会で最も弱い人にツケが回っていく。それが政治家になろうと思った契機でした。自己責任論を肯定することの多かった自民党でキャリアをスタートするという選択肢は、自分にとっては自然ではなかったです。でも上司は驚いていました。選挙に出るということと、野党から出馬するという二つの驚きだったのを覚えてます。

片岡:私は社会人になって日本テレビに就職して、その後6回ぐらい転職して今は大学で先生をやりながら、PR事務所を経営しています。転職の度に「何で仕事変わるんだ?」と言われます。(笑)「転々とする」ことに対して日本人って、ある種の拒絶感を示されること多いじゃないですか。

菅野:そうですよね。

片岡:自分の考えや思っていることが変わるから政党を変わるのか。政治や政党の状況が変わって自分が変わらざるを得ないから政党を変わるのか。野党の中でもいろいろな立場の違いはあると思います。支援者の方とか、議員の仲間の方からしてみると、「せっかく支援してきたのに、何で他のところに行っちゃうの?」という思いはあると思うのですが、その辺はいかがですか。

菅野:職業を変わるにしても、政党を変わるにしても、私自身の判断軸は「どこに今自分がいることが一番社会に貢献できるか」ということです。それこそ検事よりも、政治家としてより社会の役に立てると思ったからこそ政治家になったわけですし、政党で言うと立憲民主党から無所属、そして国民民主党と、要するに所属を変えていく場合も、どこに自分を置いた方がより社会の役に立てるか。常にそれが判断軸です。その点はあまりぶれてこなかったと思います。

片岡:議員を辞められたのはどうしてですか。

菅野:議員じゃなくても政治家だと思っています。政治家じゃない人が、政治にいかに携われるか。そのルートの多様さとか懐の深さが民主主義の成熟度を表すものだと思っています。議員を辞めても、自分の中のどこかは政治に関連せざるをえないわけです。そのうちの1人だと今は思っています。

2007年から2022年、候補者あるいは落選中も含めると15年、現職として10年の間にできたこともあります。野党でも仕事ができる、当然のことながら女性でも仕事ができるということを一つの目標にしてきました。保育園問題に取り組んだり、コロナ渦での飲食店の問題に取り組んだり、検察官の定年延長問題に取り組んだりしてきました。いわゆる一議員として微力ながらやれたことも沢山ある。

ただ同じことを続けていても、これまでのスタイル以上の社会貢献には発展していく気がしなくてですね。そこは10年という区切りの中で、さらに別の社会貢献の仕方があるのではないかと思ったことが、議員を辞めた一番大きな理由です。

あともう一つ突っ込んで言いますと、自分自身ちょうど47歳なんですけれども、何かこう、ここで一旦止めないと、やめられないキャリアになってしまうかもしれない。しがみつくだけのキャリアになってしまうのではないかなという自分の中での課題感もありました。50歳の手前で、ちゃんと次のキャリアへの転身を図った方が、無意味にしがみつかない生き方もできるのではないかと感じました。

片岡:それは議員以外のこれから先の展開ということですね。人権団体の代表となられて、コメンテーターや文化人としての情報発信。ネットメディアも立ち上げましたね。

菅野:はい、メディアを通じて政策発信や、今まで続けてきた超党派での人権に関する取り組みをより強固にしていくことができます。永田町の外から政治の後押しをするということで、政治に関わる公共人材の輪を広げていく“パーツ”になれたらいいと思っています。

片岡:それは若い世代とか女性に限らずもっと広く。

菅野:もちろんそう思っています。今後はこうした公共人材として誰もが成長していくようなフォーラムを作っていけたらいいなと思っています。

片岡:私の周りには、菅野さんに関しては一目置いている仲間が多くて、「彼女は1本筋が通って他の方たちとはちょっと違う」「政党は変わっても、主張はそんなにぶれていない」という声があります。私も正直、議員を辞めてしまうのは勿体ないという気持ちもあります。選挙区の事情など私には分からないこともあるのかもしれないですが、もう1度政党を作るとか、国政でと思っている方も多くいると思います。あるいは首長として立候補するなど何かしらの可能性はあったりしますか。

菅野:今は全くないですね。自分自身が社会に役立てることは何かと考えたときに、私のやっていきたい領域、やってきた領域というのはやはり国政にまつわることなんです。なかなか票にはならないけれども、日本という国と国民にとって極めて重要な課題。それは日本国憲法であったり皇室問題であったり、超党派での政党を超えた人権外交だったり、そういうことなのです。そう考えていくと、例えばじゃあちょっと次は地方で議員さんやってみようかなとか、首長さんやってみようかなとか、そういう思いは全くないですね。

日本という社会は有能な人はいっぱいいます。すでにカバーできているところに参入していく必要はありません。大事だと誰もがわかっているけれども、いま一つ何かこう誰もが手を伸ばしにくい領域。そういうところに左右の分断を解きほぐしながら、誰もが意見を表明できるような空間を作っていきたいと思っています。

自分の国を守るために必要なルールとプロセス

片岡:今、大変な侵攻がウクライナで起きています。ああいう事態、つまり外国からもし攻められたり、侵攻されたりした時にはどうやって国を守ればいいのか。今の日本の憲法の考えの延長線上で守っていけるのか、あるいはやはり改正していかなければいけないのか。現在のご意見をお聞かせください。

菅野:現時点(3月1日)で言えることは多くはないのですけれども、ただ、自国に置き換えて考えたときに、まず一点は自分の国は自分で守るという意志と能力がなければどの国も助けてくれないということ。もう一つは、もう自国だけで、自分だけで自分の国を守れるという世界ではない、ということがあると思います。

それを今の状況で日本がやるべきことに、さらに置き換えて考えると、やはり一点は、自衛の意思と能力ということについて、議論をタブー視せずに、憲法9条の問題も含めて、これ以上先送りはできないと思います。また9条をめぐっては、旧来型の左右の対立と分断が激しくて、いわゆる中間層であるサイレントマジョリティーがその議論に参戦することが難しい。

こうした状況が長年も続いてきたわけですが、ここ数年の権威主義の膨張には、日本の一般の方も不安を感じていて、現実的な外交安全保障を求める気持ちは強くなっていると思います。憲法審査会でも少しづつですが、政党のしがらみを超え、落ち着いた9条論を展開しようという化学反応が起き始めています。戦力不保持と交戦権不行使を明記した9条2項と、日本の自衛の問題をどうかみ合わせていくのか、真正面から議論したらいい。むしろ議論しなければならない時期に来ています

ただ、やはり自分の国は自分で守るという行動を示した上で、他国のサポートがなければ、おそらく現実的な危機が起きた場合には乗り越えられない。そうすると、今現在このロシアによるウクライナの侵略が起きている最中に、日本は他国と協調して最大限ウクライナをサポートすべきだと思います

ウクライナがその民主的なプロセスの中でいかなる犠牲を払っても、国の主権を守ろうとしている。大統領だけではなくて国民の総意で戦っています。そのこと対して武力の行使に繋がるような経済支援に懸念の声を持つ人もちろんいます。しかし、私自身はそこはフルサポートするべきだと思っています。あとは、銀行決済を含めた経済制裁、欧米と共にサポートしていくことは当然だと思っています。

片岡:ありがとうございます。関連して憲法の話になります。9条の1項2項を変えなくても自衛隊は存在していいとお考えですか。

菅野:9条2項は改正するべきだという立場です。確かに改憲リスクを重たく捉えて、問題はあるけれども9条はこのままの方がいいのだという人たちの考えは尊重したいと思ってはいますが、ただ9条2項の文意を現実に合わせるために、国民がおよそ理解できず、ひいては議論に参加できない状態は、この国の、法の支配と自国防衛の方針決定を妨げていると思っています。この現実と条文との“ギャップ”は本来埋めるべきだと思います。

片岡:9条の改憲をすれば核保有もできる。2項を変えることで、自衛隊も憲法上で認められ、核の保有も自衛のためだったら認められるべきだと考えますか。

菅野:私が思っているのは、国民には憲法を改正する、権力の正当性があるわけです。国民自身が、日本がいかなる防衛力を持つべきなのか、行使すべきなのか、その範囲を決める権限は国民にあると思います。だから、まずそこを国民意思で決めた上で、その決定と9条との間にギャップがあれば、それは国民意思に合わせて憲法の改正を提起する必要があると思っています。

改正すれば何ができるようになるかという議論ではなくて、どこまで(自衛)すべきだと思っているのかという、まずその議論をしっかりするのが先だと思っています。核の議論というのは、日本の改憲の限界を超えるかというと、それはそうではないだろうと思います。

片岡:現実が変わればその現実に対応するために、憲法であっても法律の一つなのだから、憲法改正のルールに従って、見直すべきときには見直していくべきだということですね。

菅野:そうです。ただ、当然のことながら立憲主義なので、改憲プロセスを経て改正されるまでは、現行憲法はしっかり守られなければいけない。

夫婦別姓が進まない、その意外なわけは

片岡:夫婦別姓の問題は、基本は別姓を認めるという立場ですね。

菅野:はい、そうです。選択的でね。

片岡:選択的別姓も認めないという意見があります。何で他人の選択を認めないのか、私にはよくわからないんですが、この辺の話になると国民が本当に二つに割れてしまう気がしますが、どういうことなのでしょうかね。

菅野:やはりそれは政治家を中心に、極端な保守の立ち位置に自分自身を置いてきた人たちの“メンツ”の問題が大きいのだと思っています。選択的夫婦別姓の問題に関して言うと、国民を広く見たとき、あるいは現職国会議員の意見分布を見たときも、選択的ですら認めないという立場は減ってきていると思うんです。

とはいえやはり政治家の中にはごく一部ですけれども、極端な保守としてのポジショントークが存在します。自分自身のアイデンティティと自分自身の“票田”がある人たちによって、建設的な議論で合理的な選択を行うプロセスが邪魔されているなと思うことがあります。

片岡:「合理的」だからといって必ずしも「通る意見」になるとは限らないというところですかね。

女性の緩やかな政治参加が社会を動かす

片岡:尊敬する政治家の方はいらっしゃいますか。
初めてテレビで菅野志桜里さんのお名前を知って、国会質問を見たときには、あまり日本の政治家にいないタイプのロジカルな質問内容だったのでセンセーショナルでした。どういう方を尊敬なさっているんですか?

菅野:よく聞かれるんですけれども、あまり思い浮かばなくて。でもドイツのメルケル前首相が現職当時から、そして退任されて逆に存在感が高まっています。彼女の存在と行動で示してきた世界の秩序の重みみたいなものが今大きくひびが入っているというのがあります。

彼女のように、かなり保守的なキリスト教という価値観を土台に置きながらも、普遍的な人権というリベラルな価値をちゃんと行動に移せる政治家。保守だからこそリベラルな政策を実現できるというスタンスや行動力は素晴らしかったなと思います。

片岡:2016年の「保育園落ちた日本死ね」の問題もありました。これから日本はどうなっていくのか。あれ以来ますます生きにくい社会になっているという人もいます。働く女性たちに向けて、菅野さんからメッセージをお願いします。

菅野:「保育園落ちた日本死ね」の課題、あの言葉とともに、待機児童問題が社会化していったプロセスに、国会議員として関わることができました。一般の女性による政治参加のルートの輪郭がくっきり見えてきたという思いがあります。

あのときは本当に女性の1ブログでの鋭い言葉でしたが、全体を読むと極めて説得力のある文章でした。これをきっかけに、SNSで広がっていきました。私がたまたま予算委員会で安倍(元)総理にぶつけたら「匿名なので本当に起きているかどうかわからない」という予想外の発言があり、その時は私もう失敗したと思いました。この大事なチャンスを使い切れなくて申し訳なかったと。ものすごく当事者のお母さんたちに思ったわけです。

でもそこで当事者たちが助けてくれたのは、つまり「匿名じゃ聞いてくれないなら実名出すよ」という署名活動に繋がって、1週間余りで2万7000ほどの署名が集まりました。そこからですよね。

片岡:変わりましたよね。

菅野:緩やかなSNSを通じた女性をはじめとする多くの当事者の役割分担だったわけです。社会課題をすごく重荷に感じて生きている女性にとっては社会課題に割く時間がありません。だけどスマホを通じてポチっと署名をすることならできる。

「申し訳ないけど、私保育園に受かってしまった」と仰る女性もいます。「受かる、受からない」という話自体が本当はおかしいのですが、保育園に入れなかった人の分まで、「じゃあ自分が少しこの時間を使って、国会の前まで行ってデモをするね」とか、「参考人で意見してくるね」とか、自分はそこまではできないんだけれども、「じゃあ、このプラカードをデザインのスキルあるから作るね」とか、やれるときにやれることをやるという役割分担によって女性を中心とした当事者の声が政治を動かしました。この成功体験をみんなでシェアしたのだと思います。

だから今の生きにくい、女性にとってすごく負荷がかかるこの社会で、当事者の声を政治に繋げて課題解決することができるこのルートに参加をして欲しいなと思います。政治参加の新しいルート。政治参加というと「選挙行け!」みたいな急にハードル上がってしまう感じがあるのんですが、そうじゃない、選挙ではない政治参加、現実的な参加方法、日常的な参加方法というのも私も後押ししていきたいなと思います。

片岡:どうもありがとうございました。

profile
菅野志桜里(かんのしおり)さん
宮城県仙台市生まれ。東京大学法学部卒。元検察官。2009年の総選挙で初当選。3期10年衆議院議員を務め、待機児童問題や皇位継承問題、検察庁定年延長問題の解決などに取り組む。憲法改正に向けた論点整理を示すなど積極的に発言を行う他、2019年の香港抗議行動をきっかけに対中政策、人道外交に注力。人権外交を超党派で考える議員連盟を創設。IPAC(Inter-Parliamentary Alliance on China)初代共同議長。2021年11月、一般社団法人国際人道プラットフォーム代表理事に就任。弁護士。

(取材:2022年3月)

片岡英彦
東京ウーマン編集長
京都大学卒業後、日本テレビで、報道記者、宣伝プロデューサーを務めた後、アップルのコミュニケーションマネージャー、MTV広報部長、日本マクドナルド・マーケティングPR部長等を経て、片岡英彦事務所(現:株式会社東京片岡英彦事務所)設立。2011年フランス・パリに本部を持つ国際人権支援団体「世界の医療団」の広報責任者就任。2013年、一般社団法人日本アドボカシー協会を設立。企業のマーケティング支援、大学での教鞭他「日本を明るくする」数々のプロジェクトに参加。