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■ 人生の先輩からあなたへ


第12回 湯川れい子さん(音楽評論家)

しなやかに凛と日々を過ごすために
「人生の先輩からあなたへ」
会社員でも派遣社員でも公務員でも、医師でも看護師でも、クリエイターでもエンジニアでも、ミュージシャンでも、会社の社長でも主婦でも、どんな職業についても、結婚していてもいなくても、子どもがいてもいなくても、みんな公平に歳をとります。それなら、人生が終わるその日まで、いきいきとしなやかに毎日を過ごしたいもの。私たちの前を歩くすてきな先輩たちのお話にそのヒントを学びます。

自分が欲しいものは何?
二兎でも三兎でもいいから、夢を追いかけなさい

湯川れい子さん
音楽評論家
「東京ウーマン」の読者の年代のころ、湯川さんはどのような毎日を過ごされていましたか?
とても忙しい毎日でしたよ。いわゆる洋楽が盛んな1970年代、名曲の時代って言われた時代で、エルトン・ジョンやカーペンターズなど、何しろ洋楽に関連する番組が多くて、ラジオのレギュラーだけで週に3本、週刊誌の連載は2本、月刊誌も3本。本当に忙しくって。だから毎日、朝方まで原稿を書いているか、ラジオ番組の選曲をしていました。

その合間にコンサートに出かけたり、外国に行ったり、そんな時間を過ごしていたの。でも、徹夜して、朝まで原稿を書いて、くたびれ果てた顔をして、そろそろ寝なくちゃ・・・って。これでいいのかなという思いがどこかにあって、複雑な毎日でしたね。
私が知る限りでは、湯川さん以前にジャズ評論家という職業の女性はいなかったと思うのですが・・・。
そうですね。私はね、女優になりたかったし、詩人にもなりたかったし、画家にもなりたかったし、歌手にもなりたかった。なりたいものややりたいことがいっぱいあって。でも、戦後ようやく女性が解放されて自由に職業を選べるようにはなったけれど、先輩、いわゆるロールモデルはどこにもなかったのね。

だからどういう伝手を頼って、どういう風にしたらその職業に付けるかはいつも手探り。もちろんそれが職業として成り立つかもわからないので、機会を見つけては試しての繰り返しで、そのなかで一番手応えがあったのが、洋楽を紹介する原稿を書いたときでした。
洋楽に興味をもたれたきっかけはどんなことだったのでしょう?
ちょうど戦争が激しくなった頃、真珠湾攻撃があった翌年くらい、18歳離れた兄に、招集礼状が来て、私はまだ5歳でした。その兄が、当時住んでいた目黒の家の庭に防空壕を掘ってくれている間中、きれいなメロディの口笛を吹いていたの。そのメロディがあんまりきれいだったので、「それはなんていう歌ですか?」と聞いたら、「僕が作った曲だよ」と。その兄は戦死してしまったけれど・・・。

それからずっと時間が経って、中学生になって、まだ日本のラジオでは流れていなかったジャズやハワイアンを米軍放送で聴くようになったのだけれど、そのラジオから、あのとき兄が口笛で吹いていたメロディが突然流れて来たの。兄は「僕が作った曲だよ」って言っていたのに。

やがてそれは、『Sleepy Lagoon(Harry James Orchestra)』だとわかって。真珠湾攻撃の翌年くらい、1941年~1942年に、兄が口笛を吹いていたころにアメリカで大ヒットしていた曲だったんです。その曲をどうして兄が口笛で吹けるほど聞いていたのかということが、私の大きな疑問になりました。
戦死されたお兄さんの口笛が湯川さんを洋楽に導いた・・・
そのことをきっかけに、Harry James Orchestraがどんなオーケストラだったのか気になるいろいろなことを、独学で勉強し始めたのね。そんななかでジャズにも触れ、惹かれ、勉強するようになっていったの。高校を卒業して2年くらい経ったときに、ジャズ専門誌『スイングジャーナル』の読者論壇というコーナーに、400字詰めの原稿用紙で2枚程度の論文を書いて送ったら、採用されたんです。

それに対してたくさんのファンレターが届いて、編集部から「本格的にジャズについて書いてみないか?」と声をかけていただいたのが、ジャズ評論家としての第一歩。そこからはずっと、自分の好きな音楽を追いかけ続けて、ここまで来たという感じです。
ご自身で道を切り拓きながらのお仕事。たくさんのご苦労があったと思います。
人はさまざまな体験を通して、この場合はこう、この場合は・・・と、誰かに教えていただいたり、ときには転んだり、すりむいたりしながら成長していくものだと思うんですね。今回、安倍内閣に五人の女性閣僚が登用されたけれど、残念ながらそのうちの二人が足下をすくわれる結果になってしまった。多分ですけど、これまでお二人とも周りからバッシングを受けるようなポジションに立つことがなかったから、わきが甘かったのかもしれませんね。

私はロールモデルがいなくて、時代も「女に仕事をさせてやる」という風潮で、甘やかされることは甘やかされたけれど、いい気になっていると、競争相手から、容赦なくやられてしまう。私のようなフリーランスの女性なんて、都合が悪いことがあれば、「明日から来るに及ばず」だったので、連載でも、放送でも、一方的に打ち切られるなんていうケースは日常茶飯事。まだ、セクハラなんていう便利な言葉も認識もなかったから、ずいぶん悔しい思いもして来ましたね。
そのご苦労をどのように乗り越えていらしたのでしょう?
一番大きかったのは母の一言でした。理不尽な扱いを受けて泣いていた私に、母が同情してくれると思っていたら、「あなたに隙があるからですよ」と。「私に隙があるんだ」と、頭をガーンと殴られたような気持ちになりましたね。よく考えれば、「きちんと自己防衛する体制を作りなさい」ということなのね。

相手に好意をもってほしい、好意をもってもらえれば仕事がしやすいんじゃないかとか・・・。必要以上にニコニコ笑っていたのかもしれないし、馴れ馴れしくしていたのかもしれない。それを隙だと言うなら確かに隙ですよね。一緒に仕事をする相手として好意をもってもらったり、信頼してもらったりする。そこに女性という性が入り込まないためにどうしたらいいのかを、それからは慎重に考えるようになりました。
今でも海外のアーティストと交流をもたれています。特に印象に残っている方は?
敢えてというなら、エルヴィス・プレスリーとマイケル・ジャクソンでしょうか。それからシンディ・ローパーかしら? エルヴィスは、最初はファンだったのよ。エルヴィス・プレスリーの曲がラジオから飛び出して来て、「え! なにこの人?」って。かっこよくて、かわいくて。いつかアメリカに行って、「湯川れい子さんです」とちゃんと紹介されるようになりたいと思いました。それが私の大きなモチベーションにつながったのね。それからアポイントメントを取り続けて、実際に会えるまで15年かかりました。

マイケル・ジャクソンが最初に日本に来たのは14歳のとき。それから55歳で亡くなるまでの40年以上、マイケルの人としての苦しみやアーティストとしての素晴らしさなど、それはいろいろなものに触れました。あれだけ素晴らしい音楽を創って、そんな作品のなかで彼はたくさんのことを伝えているのに、世間の人は、鼻の形とか、肌の色とか、そんなことでしか彼を評価しない。だからこそ、自分の感覚を信じて嘘をつかず、自分の思いを伝えて行くことが大切なんだと、マイケルに教えてもらった気がします。マイケルを信じて良かったと心の底から思っていますね。

シンディ・ローパーとも1984年から30年になろうとする付き合いになるけれど、2011年3月11日の午後2時46分、あの東日本大震災のときに、彼女が来日して、改めて彼女の強さに触れることになりました。
シンディ・ローパーといえば、震災後日本に留まってコンサートを続けたことでも知られていますね。
そう、あのときシンディは、「友達に背中を向けて帰れない。私にできるのは歌うことだけよ」と言って。シンディには14歳の一人息子がいて、やっと産んだということも知っていたので、「帰らなくていいの?」と心配でした。私にも1歳になる孫がいましたから、放射能のことはとても心配しました。

実際に3月12日にはメルトダウンが起きていて、翌13日にはアメリカ人には、80km以上の退去命令も出ているような状況でしたからね。3月21日に東京で霧雨が降ったときは、ドイツの気象情報によれば、東京方面にも高濃度の放射能が飛来していて・・・。そんなとき、私にできることといったら、Twitterで「とにかく子どもを雨に濡らさないでください」と言い続けること。でもデマを流すんじゃないと、まるで非国民のような扱いを受けました。

でもそんななかでもシンディはステージに立ち続けてくれていたんです。「人はいつかどこか死ぬのよ。だとしたら自分でちゃんと死に場所を選びたくない?」って、シンディは言って。そこまでの覚悟に、私も元気と勇気をもらったんですね。
そのときも、そして今でもTwitterで、ご自分の意見を発信し続けてらっしゃいますね。その強さはどこから来ているのですか?
別に強さというか・・・。とっても素直な心情なんです。私には孫がいるけれど、彼らの世代が育っていく5年後、10年後に、日本が本当に平安で、彼らが音楽を楽しく聴いていてくれるのかしら? と。 私は、音楽のおかげで、十分なほど幸せな人生を送らせてもらってきたので、子どもにも孫達にも、好きなときに好きな音楽を聴いて、友達や好きな人と、自由に語り合える、笑い合える、そんな世界であってほしいと願っているんです。
十分に幸せな人生だということですが、音楽以外でやりたいと思われるようなことはありますか?
ここに描きかけの絵がありますけれど、そろそろ5年になるでしょうか。ずっと絵を描きたくて、今は1年に数枚描いています。この虹の絵もまだ書きかけで、あと半年くらいはかかりそうですね。来年からはカメラも始める予定なの。

実は夢貯金をしてきたのよ。仕事が忙しくてできなかったり、子どもを育てていて時間がなかったり、そのときにできなかったことを夢貯金として貯めてきたの。それで今ではずいぶん貯金も減っているの。

すっと観たかったオーロラは、7回も観に行ったし、今度はそれをカメラで撮りたいと思っていて。虹を追いかけて写真を撮り続けているフォトグラファーがいらしてね。彼は、私がたった一度だけ観たハワイのナイトレインボウ(夜、月の光で現れる虹)をもう何枚も撮っている人で、虹は本来丸いもので、半分に切れて見えるのはそこに地平線があるからだって、ヘリコプターをチャーターして丸い虹を撮影してしまうような人。来年から彼に写真を習う約束をしているんです。
東京ウーマンの読者にメッセージをお願いします。
そのときそのときに、自分が欲しいと思うものは何か、欲しいと思っていても、まだ手に入っていないものは何かということを、カードとして並べてみてはどうかしら? もしかしたら、50万円のケリーバッグかもしれないし、優しいパートナーかもしれないし。そして子どもかもしれないし、仕事の成功かもしれない。それらをカードとして自分の前に並べて、自分の人生の選択肢として今、選ぶべきカードは何かをよく考えてみることが大切だと思います。そのカードを選ぶとき、5年後、10年後に後悔しないかを自分に問いかけてみてはどうかしら?

女性は男性に比べると、右脳と左脳を結ぶ脳幹がちょっと太いから、同時に二つ、三つのことを考えたり、行動したりできる能力があると言われていますね。だから、二兎でも三兎でもいいから、夢を追いかけなさいって思うの。自分にとって今、何が大切なのかを考えて、優先順位をつけて、責任を持って行動すれば、後悔することはきっとないはずです。

エルヴィス・プレスリーにしても、マイケル・ジャクソンにしても、どんな大スターになったって、たかだか人間なのよね。みんな死んでいくんですもの。トイレにも行くし、不眠で悩みもするし、悲しんで涙もこぼすし、便秘もするでしょうし・・・。間近でそういう姿を見てきたけれど、人は根本のところは皆同じ、変わらないということだと思いますよ。
湯川れい子さん
東京都目黒で生まれ、山形県米沢で育つ。昭和35年、ジャズ専門誌 『スウィング・ジャーナル』 への投稿が認められ、ジャズ評論家としてデビュー。その後、17年間に渡って続いた 『全米TOP40』 (旧ラジオ関東・現ラジオ日本)を始めとするラジオのDJ、また、早くからエルヴィス・プレスリーやビートルズを日本に広めるなど、独自の視点によるポップスの評論・解説を手がけ、世に国内外の音楽シーンを紹介し続け、今に至る。また作詞家としても、作詞家としての代表的なヒット曲に 『涙の太陽』、『ランナウェイ』、『ハリケーン』、『センチメンタル・ジャーニー』、『ロング・バージョン』、『六本木心中』、『あゝ無情』、『恋におちて』、ディズニー映画「美女と野獣」「アラジン」「ポカホンタス」「ターザン」などの日本語詞など。

著書には「エルヴィスがすべて」(ブロンズ社)、「湯川れい子の幸福へのパラダイム」(海竜社)、「幸福への共(シンク)時性(ロニシティ)―もっと豊かにもっと健康に生きるための26章」(海竜社)、「幸福への旅立ち(マハーサマーディ)―人生を完璧なものにするための20章」(海竜社)、「湯川れい子の今夜もひとりかい」(共同通信社)等があり、2004年10月には、聖路加国際病院名誉院長・理事長の日野原重明氏と共に、音楽が持つ根源的な力を医学、精神、芸術等様々な角度から分析し、分かりやすく解いた初の対論集 『音楽力』 (海竜社)が発売、既に8版目に入っている。近年は、平和、健康、教育、音楽療法などボランティア活動に関するイベントや公演も多い。
湯川れい子音楽事務所「オフィス・レインボウ」
HP: http://www.rainbow-network.com
湯川れい子さんとお目にかかって
エルヴィス・プレスリーやマイケル・ジャクソン・・・。
どんな華やかな話が飛び出してくるだろうと思いながら、湯川さんのインタビューに臨みました。

しかし、湯川さんの話から感じてきたのは、華やかな世界に身を置きながら、その裏で悩みも痛みも悲しみも抱えている生の人間像。彼らの音楽性に加えて、人としての弱さもひっくるめて、彼らに寄り添ってきた湯川さんの懐の深さを感じました。だからこそ、たくさんのアーティスト達が湯川さんを信頼し、生涯にわたって交流を続けたのでしょう。

今は、次の世代を生きる子どもたちのために、環境問題、平和問題など、おかしいと感じたことはおかしいと、Twitterを通じて、声をあげ続けています。

そのために非難を浴びることもたびたびだという湯川さん。
でも、「おかしいものはおかしいのだから。子どもたちのためだから。それでも発信し続けたいと思います」と、背筋を伸ばして答えます。

その勇気ある発言に、日本中のみならず世界中の人が励まされ続けていることでしょうね。

強くて優しい。優しくて強い。
湯川さんは今日もしなやかに時代を生きています。
たなかみえ
コンテンツプランナー・ライター
子どものPTAで広報委員を経験したことにより、書くことに目覚める。主婦業、子育てをしながら、40代半ばにしてIT関連、そして教育関連の会社に就職。このときに出会ったたくさんの方たちに支えられ、2013年10月よりフリーランスのライター、コンテンツプランナーとして活動中。人やモノ、場所に寄り添って、丁寧にコンテンツを作ることを心がけています。たくさんの方に支えられて、ご縁をいただいて、今日の私があります。これからも人との出会いを大切に毎日を丁寧に過ごしていこうと思います。
HP: office makanaloha


 


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