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■ 人生の先輩からあなたへ


第11回 久田 恵さん(ノンフィクション作家)

しなやかに凛と日々を過ごすために
「人生の先輩からあなたへ」
会社員でも派遣社員でも公務員でも、医師でも看護師でも、クリエイターでもエンジニアでも、ミュージシャンでも、会社の社長でも主婦でも、どんな職業についても、結婚していてもいなくても、子どもがいてもいなくても、みんな公平に歳をとります。それなら、人生が終わるその日まで、いきいきとしなやかに毎日を過ごしたいもの。私たちの前を歩くすてきな先輩たちのお話にそのヒントを学びます。
久田 恵さん
ノンフィクション作家
久田さんを初めて知ったのは、子連れでサーカス団の炊事係として過ごされたご自身の体験を書かれた「サーカス村裏通り」でした。
サーカスに行ったのは、私が34歳、息子が4歳のときだったわ。その前の年に、シングルマザーになったのね。母子家庭だし、子どもは保育園に行きたがらないし、「ああ、もう嫌だ。人生を変えたいけどどうしたらいいかわからない」って、ある人に愚痴ったの。そしたら「サーカスにでも行かなきゃ人生変わらないんじゃない?」と言われたのよ。

その人は冗談のつもりだったのだろうけど、「そういう手があるのか」って(笑)。サーカスに行けば子どもも保育園に行かなくて済むしね。早速、住み込み可というサーカスを探して、1年間そこで炊事係として働いたというわけ。

サーカスに行くまで、フリーのいわゆる非正規雇用だったけど、有名な広告代理店のクリッピングニュースのコーナーを請け負っていたの。そしたら、「広告会社からサーカスの炊事係に転身した久田恵さん!」。戻ったとたんに取材が入って、それはびっくりしたわ。おまけに「その体験を書いたらどうか」と勧められて、単行本を出すことになったの。そこから物書きとしての生活がスタートしたのね。
フリーのノンフィクションライター、ルポライターとしての活動が始まったのですね。
ちょうど『日経ウーマン』が創刊されるときで、いくつもの企画を考えたわ。女性の副編集長と、一緒に飲みに行ったり、喫茶店に行ったりしながらね、「どういう本を作ろうか。あんな企画、こんな企画にしよう」と、それは楽しかったわ。働く女性にターゲットを絞って雑誌を出すのはとても活気的なことだったから、どこに取材に行っても、歓迎されたものよ。

当時、アメリカに『Ms.』 という女性誌があってね。英語の得意な先輩と『Ms.』誌を読む会をやっていたの。『Ms.』誌には、自分達の生きる価値を子ども世代に伝えていこうという考え方を基にした「解放された子ども達のページ」という企画ページがあって、あらゆる立場や職業の女性が、交代でドキュメントを書いたり、おもしろい童話を書いたり、子どもたちに新しい価値観を与えるためのメッセージがちりばめられていたの。『日経ウーマン』にもこういうページを作らなくちゃいけないって思ったわ。
その企画は実現できたのですか?
編集長は男性で奥さんも専業主婦だったから、そういうページの必要性はなかなか理解してもらえなかったわ。結局、副編集長が「久田さんが書きなさい」と言ってくれて、連載が始まったのよ。公園や学童保育で、子ども達に、お母さんが働いていることによって起きる体験やエピソード、思い出などを聞いて、それをまとめて連載していたの。

その後も、働く母親の子どもにインタビューして、単行本を書いたわ。ある子どもは、「ママが帰って来たら抱っこして欲しいの。でもママはいつも忙しいから、抱っこするのを忘れるの」。この子の母親は話を聞いて、「抱っこすること」と紙に書いて見えるところに貼ったそうよ。ある子は、「出前の天丼が届くと言ったからワクワクして待っていたのに届かなかった。お母さんが電話するのを忘れたんだよ。でも天丼が届かなかったって言ったら、お母さんが泣いちゃったんだ」。

そういう話を聞いていると胸が痛むけれど、実際に起こったことだけを子どもから取材して書いたの。私自身も、息子の夏休みに食事の支度を忘れて出かけてしまったことがあったもの。『Ms.』誌を読んでいて、母親が仕事を続けたいのであれば、その生き方を子どもにしっかり伝えて行く責任があるのではないかって思っていたからね。でも今も、日本のほとんどの母親はそれをしていないと思いますよ。あれから30年以上経つのにね。全然変わっていない。
お母様、そしてお父様の介護を一人でされました。
60代で母が突然倒れて、私の介護生活は始まったわ。当時は、私と同じようなシングルマザーの3人で、小さな事務所を立ち上げていたのだけれど、1年目に母が倒れてしまい、介護と両立するために、在宅で仕事をするというスタイルを選んだの。母が倒れたときは、ようやく物書きとして自立できそうなころだったから、つらかったわ。でも一人暮らしになった今、何も怖くない自分に気付いたの。ずっといつも誰かの面倒を見ていたから。大工仕事もするし、電球も変えるし、朝起きたらすぐに朝ご飯、家族みんなのお昼を作る。その間に取材に出かけて……、そんな生活をしているわけだから、それは大変だった。

でもそのおかげで、「2時間空いたから、あれとこれをやろう」って、そんなことが苦にならない。当時は、狭い家なのにいつも階段を駆け上って駆け下りていたわ。「もう少し落ち着いていられないものか」とよく父に言われた。最近ようやくゆっくり階段を上るようになったわ。駆け上る、駆け下りる。時間がないから集中して何かをする。その訓練が今を楽にしている。最近の私は、普段はぐうたらしているけれど、でも集中するときは集中できるものね。
大変だった経験が今の生活を豊かにしているのですね。
健康で死なないでよかったなと思うわ。大変だったけれど、おもしろかったという感じもする。当時書いたエッセイには、「人が暮らしていくのはこんなに面倒くさいことばかり、耐えられない」と書いてあったけど、その面倒くささがよかったのかもしれないわ。たくさんの知恵が身に付いたと思う。介護の合間をぬってダンス教室に行って、徹底的に習って、介護が終わったときには先生になっていた知人もいるわ。そうやって人生を無駄にしない方法を学んでいくのね。

環境が変わってもそのなかで、何かが身に付くようなやり方していれば、きっと後が楽になるわ。私の場合は、ガーデニング。昔はね、花なんかとても育てられなかったわ。花を心にかける気持ちの余裕はなかったからね。でも、親の介護しているときにガーデニングを始めて、花の名前を覚え、花を種から育てて、「花屋でも開くの?」と言われるくらい徹底したことが、役に立っているわ。今はとてもハッピー、楽しい。死ぬまでの何年かの間、楽しめればそれでいいのよ。人生なんてそんなものだと思うわよ。
一卵性母娘が話題になったと思ったら、最近は母親を嫌う娘が増えたと……
嫌われている母親っていわゆる団塊の世代なのかな。まず問題に思うのは、母親だってさまざまな葛藤を抱えながらも、自分の人生をより良く生きたいと思っている一人の女性だということを娘達が理解していないこと。子どもを愛し、かいがいしく家族のサポートやケアをするのが理想の母親像だと思っているかもしれないけれど、それは幻想にしかすぎないのよ。

娘達はいつも、「理想の母親像と違う自分の母親」に対して怒っているような気がしてならないの。母親達は、一人の女性、先輩として、自分の生き方を娘達に伝えなくてはならないし、娘達もそろそろお母さんが嫌いだなんて言うのはやめにしたらどうかと思うわ。

不登校の取材をしていると、ときどき「お母さんに問題がありました。だから謝りなさい」などと言う人もいるけれど、そうしている間は、「僕は悪くない。私は悪くない」という世界から子どもは抜け出せないからね。「お母さんを嫌い」と言うならそれでもいいけれど、そこにこだわるなら、すっぱり母親を捨てればいいじゃんって思っちゃう。そろそろ新しい人間関係を築いていってもいい頃じゃない?
親子関係の距離をとるのが苦手?
いわゆる一卵性親子なんて話題になったけれど、要は母子密着よね。とりあえず葛藤はなさそうだから、ほっておけばいいんじゃない(笑)。でも、いずれどこかで大変になる日が来ると思う。お互いに依存しながら生きていくのってきついと思うのよ。母親と息子の関係にしてもしかり。なんとなくそれを肯定する風潮もあるような気がするけれど。今の関係が嫌じゃないから、先に繰り延ばしているけれど、いつか子どもたちが結婚したときには、きっと葛藤やトラブルが生まれてくると思うのよ。
東京ウーマンの読者にメッセージをお願いします。
人生の目標が「何かを手に入れること」だとしたら、それは、「一人でも生きられる強さを手に入れること」なんじゃないかと最近思っているわ。そうしないと誰かに寄りかかって、誰かが自分を幸せにしてくれるって期待してしまうのじゃないかしら? そうするとね、不満が湧いてきて、日々が楽しくなくなっちゃうの。期待すまいと思ってはいても、やっぱり期待しちゃうでしょ。だから最近は、「愛はいらないって思いましょう」って。でも人は、愛を求めちゃうよね。私自身もそれを実現できていないから、テーマだと思っているの。でも結局は、みんな一人で死んでいくんだよね。

今の社会は、「個」が強くないと、寂しい、悲しいというドツボにはまってしまう気がするのね。世間の期待に応えて生きることはしないと思っていないとだめ。周りの人が「いい人だね。すてきなお仕事をしているのね」って言ってくれると、自分の価値も認められるように思っちゃうかもしれないけれど、そういうことにも寄りかからないようにしないとね。だってそれはいつかは失われていくものだから。だから、世間の期待には応えられなくてもいいんだって思う強さが必要かもね。
久田 恵さん
1947年生まれの団塊世代。上智大学文学部を中退し、さまざまな仕事を経て、女性誌のライターに。日経ウーマンの創刊に立ち合う。1990年「フイリッピーナを愛した男たち」(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。子どもの不登校に関する親子同時ドキュメント「息子の心、親知らず」で平成9年度文藝春秋読者賞受賞。目下、「ファンタスティックに生きる!」をテーマに「お茶会」や「ワークショップ」「ミニ公演」などを開催する「花げし舎」を主宰。

自宅に小さな人形劇場を設け、大人のためや子どものための音楽人形劇を公演するNPO法人「パペレッタ・カンパニー」の代表理事もつとめている。
(⇒写真:音楽人形劇「赤頭巾と狼の話」パペパペダンス)


主な著書に、「ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々」(文藝春秋)、「母のいる場所――シルバーヴィラ向山物語」(文藝春秋)。「シクスティーズの日々」(朝日新聞社)など。
花げし舎
HP: http://hanagesisha.jimdo.com
久田恵さんとお目にかかって
久田さんを知ったのは、もうずいぶん前のことです。シングルマザーだった久田さんがまだ幼い息子さんを連れて、炊事係として過ごしたキグレサーカスでの生活を描いた「サーカス村裏通り」、息子さんの不登校について書かれた「息子の心、親知らず」。決して真似はできなかったけれど、いや、真似できないからこそ、その思い切った行動や考えに、ひそかに拍手を贈っていたことを思い出します。

時は流れて、大変だった子育ては一段落、今度は親の介護に直面した私の前に、またまたヒーローのように久田さんが現れました。久田さんは子育てと平行してお母様、そしてお父様を在宅で十数年間も介護、最後は老人ホームで看取られました。

働くシングルマザー、子どもの不登校、介護。日本で今、問題になっていることを、久田さんは誰よりも早く経験されてきました。今なら困ったことや悩んでいることがあれば、ホームページやSNSを覗けば、専門家のアドバイスも同年代の体験談を読むことができます。誰よりも早くそれを経験してきた久田さんは、悩みながら、文句を言いながら(これはご本人の言葉です)、でも誰にも頼ることなく久田流の解決方法を探ってきました。

そして今、久田さんは大変だった子育てからも、介護からも解放され、「いろいろあったけど楽しいわ」と笑います。

まだ終わったとは言えない子育てや在宅ではないけれど父の介護。ときどきチクチクする私の心の痛みも、いつか久田さんのように「ああ、おもしろかった。あの体験も無駄じゃなかったわね」と言える日が来るのでしょうか。

そんな私の気持ちを知ってか知らずか、「だいじょうぶよぉ。何の心配もいらない」。久田さんは豪快に笑いました。

書く仕事の大先輩へのインタビュー、そしてこの記事のライティング。こんなに緊張する仕事は初めてかもしれません。
たなかみえ
コンテンツプランナー・ライター
子どものPTAで広報委員を経験したことにより、書くことに目覚める。主婦業、子育てをしながら、40代半ばにしてIT関連、そして教育関連の会社に就職。このときに出会ったたくさんの方たちに支えられ、2013年10月よりフリーランスのライター、コンテンツプランナーとして活動中。人やモノ、場所に寄り添って、丁寧にコンテンツを作ることを心がけています。たくさんの方に支えられて、ご縁をいただいて、今日の私があります。これからも人との出会いを大切に毎日を丁寧に過ごしていこうと思います。
HP: office makanaloha