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■ 人生の先輩からあなたへ


第2回 堀口 雅子さん(産婦人科医)

しなやかに凛と日々を過ごすために
「人生の先輩からあなたへ」
会社員でも派遣社員でも公務員でも、医師でも看護師でも、クリエイターでもエンジニアでも、ミュージシャンでも、会社の社長でも主婦でも、どんな職業についても、結婚していてもいなくても、子どもがいてもいなくても、みんな公平に歳をとります。それなら、人生が終わるその日まで、いきいきとしなやかに毎日を過ごしたいもの。私たちの前を歩くすてきな先輩たちのお話にそのヒントを学びます。
堀口 雅子さん
産婦人科医
堀口先生が「東京ウーマン」をご覧になっている方たちと同じ年代、30代の頃、どのように過ごされていましたか?
ひたすら医学の道を歩んでいましたよ。普通、医学部は25歳で卒業するのだけれど、まだ女性が医師になるなんてという時代でしたから、私はまず薬学を学び、ホルモンについて研究し、それから医学部に進んだの。どうしても医者になりたかったから、一生懸命勉強しましたよ。人よりちょっと回り道をしたから、卒業は30歳のとき。クラスメートより5歳年上でした。
当時は医学部に入学する女性はまだ少なかったのではないですか?
群馬大学に入学した60人中、女性は3人でした。だから、女性用のトイレも脱衣所もなくて、いろいろな場面で開拓が必要だった。大学卒業後、東大の医局に「入りたい」と電話したの。そしたら「女性は採用しない」って言うじゃない。電話を持つ手が怒りと驚きでワナワナ震えちゃったわ。結局、東大医学部の卒業生に女性が一人いたこともあって、私も席を置けることになったの。
医局ではどんなふうに女性が扱われていたのでしょう?
img医局で1〜2年勉強するとね、地方の病院に責任者として赴任していくの。一緒に入局した男性の医師が、責任者として次々と赴任していくなかで、私と女性の同僚は、女性の指導ができる医師の下で診療するしか道がなかったの。

受け入れる側の病院の経営者も医師も看護師も患者さんもみんなが女性の医師をどう扱っていいかわからなかったのね。

何年か経って、アメリカから帰国された先生が、男女平等の考えをもってらして、ようやく私をある病院へ責任者として行かせてくれたの。それくらい、医局にも指導にも女性への差別がありましたよ。
そのなかで産婦人科医の道を目指されました。
せっかく女性に生まれたのだから、女性が女性の立場で女性の体を診ることが必要だと思ったの。今でこそ、女性医療という言葉が定着しているけれど、当時は男性の視点で女性の体を診ていたわけだからね。

ときどきね、当時の患者さんに声をかけられることがあるのよ。「男性の先生に診てもらうのがつらかったけれど救われた」「先生に取り上げてもらった子どもに雅子という名前を付けた」。この間も銀座の交差点で声をかけられたわ(笑)。
その後、貞夫先生と結婚されたんですね。
38歳の時に結婚しました。彼は35歳。年齢は、私の方が3歳年上だったけれど、医局では彼の方が先輩。上級生としても指導者としても尊敬できる面を多く持っていたのね。特に患者さんに優しかった。それが結婚に踏み切れた理由かな。もともと独身主義ではないからね(笑)。

でも、結婚して3ヵ月はピルを使いましたよ。彼がいいやつだとわかっていたけれど、彼の家族とうまくやっていけるどうかはわからなかったからね。見極めるための時間は大切だと思ったわ。39歳と42歳という高齢出産だったけど、その後、運良く妊娠、二人の子どもにも恵まれたの。
働きながらの子育ては大変でしたか?
預ける場所がなくて、子どもが7ヵ月までは休職しました。このときに、おっぱいもあげておむつも変えたのに泣き止まなくて、子どもを絞め殺してしまいたくなるような苦しい気持ちを知りました。

だから、検診に来るお母さんの気持ちや大変さも理解できるようになったわ。その後、職場である愛育病院の保育室に子どもを預け、診察時間の合間におっぱいをあげながら診療を続けたの。
ご自身の経験から、虎の門病院で「病院で働く人のための保育園」を作られたそうですね。
うちの子どもが通っていた保育園は、「働くお母さんをもつ子どものため」という考え方だったの。あくまでも目線は子ども。この保育園は、子どもを預かってくれる場所がなくて苦労したお母さん方が、自分の子どもはもう育ったけれど、後輩のお母さんのために、「自分が預けたいと思える保育園」をという理念をもって作られたのね。

私達もその理念を大切にしたい、つないでいきたいと、虎の門病院で働く母親が、子どもを持ちながら働き続けられるよう、院内に「虎の子保育園」を作りました。保育園に預けるのはかわいそうだと言う人もいるけれど、保育園と自分の理念に段差がなければ、子どももうろたえることはないと思うのよ。

最近は保育園に依存したり、利用するだけだったり、子どもが通っている保育園をみんなで盛り立てていこうという気持ちが薄れてきているように思えるわ。
働く女性が結婚・出産することで、 築き上げてきたキャリアを手放すことにはならないでしょうか?
実は仕事をする女性の成長曲線って、35歳くらいで頂点を迎えるのね。その前のS字状カーブで急上昇しているときが、結婚や出産にぶつかる。だからみんな悩む。

今やっていることが、自分にとっても周りの人にとっても必要不可欠だと思っているかもしれないけれど、その道を少し外れて考えてみてはどうかしら? 

そうすることで、今まで自分が目指してきたこととは違った展開が生まれて、自分にとっても周りの人にとってもいい影響が生まれるかもしれない。

今まで唯一無二だと思っていたことも、ちょっと視点を変えることで、より自分を伸ばせたり、周囲にプラスの影響を与えたりできるということ。女性として社会を切り拓いて来た先輩達もみんなそうして来たのね。
80歳を過ぎても医師としてのお仕事を続けてらっしゃいます。 お仕事を辞めようと思われることはないのでしょうか?
だって、私の辞書には仕事を「辞める」なんて言葉はないんだもの。私の母は何歳になっても、近所の人に麻雀、シャンソン歌手にフランス語と、自分の獲得してきたものを常に人に教えていたわ。その影響かしらね。

それでも、会合を忘れたり、居眠りしちゃったり、いろいろな意味で年齢を感じることはあるわ。責任をもって人に何かをあげることができなくなったときは、収斂することも考えなくちゃいけないかもしれない。でもそのときは、子どものころに習っていたバイオリンをもう一度始めたいし、英語ももっとしゃべれるようになりたいし、夫を置いて海外に留学もしたい。

自分を高めるための時間にしたいと思っているわ。自分のやれる範囲で年齢に応じた能力を積極的に伸ばすことは忘れたくないもの。
最後に「東京ウーマン」をご覧になっている若い女性へメッセージをいただけますか。
今でも中学や高校で健康教育についての講演をするとき、女子生徒に必ず話をするの。「月経がつらくて産婦人科のお医者さんに行ったときに、すぐに『内診台に上がりなさい』なんていう医者がいたら、蹴っ飛ばして帰っておいで」って(笑)。

まずは十分話を聞いて、どこが問題かを説明して、痛み止めを処方して、それでもどうにもならない、おかしいと思われることがあって、初めて内診台でしょ。それができない医者は蹴っ飛ばして帰ってきていいってね(笑)。

そして、いろいろな道があるということを忘れないで。今まで歩いて来た道を離れる勇気。自分を理解してサポートしてくれる仲間。決して忘れないでね。

自分が得られたもの、恩恵を受けて来たものは、私もそうしてきたように、できる限り後輩たちに伝えていってほしい……、そう思います。
堀口 雅子さん
産婦人科医。1930年(昭和5年生まれ)。今年は7回めの年女を迎える。 群馬大学医学部卒業後、東京大学医学部産科婦人科教室にて研修。長野赤十字病院他に勤務後、虎の門病院産婦人科では医長。現在は、女性成人病クリニック副院長、主婦会館クリニックで診療にあたっている。性と健康を考える女性専門家の会名誉会長。2003年エイボン女性功労賞受賞。 夫は産婦人科医で元愛育病院院長の堀口貞夫氏。
ご夫妻の共著:「お医者さん夫婦のカラダにやさしい養生訓56」
堀口雅子先生とお目にかかって
雅子先生に心や体を救われた患者さんは、この日本にいったい何人いるのでしょうか? 今では考えられない女性差別と戦いながら、女性医師としてのいばらの道を切り拓いてきた、まさに日本の女性医師、産婦人科医の先駆者。

でも、そんなつらさや大変さをみじんも感じさせない強さと優しさをもって、たくさんの患者さんを救ってこられました。そして、その雅子先生を支えたのは、人としての尊厳の大切さを身をもって示された亡きお母様、そして「仕事をする女性と結婚するのはごく当たり前のこと」と笑顔で話されるパートナー で、80歳の現役産婦人科医である貞夫先生のお二人でしょう。

この冬には小学生になったお孫さんを連れてスキーに出かけられるのだとか。これからも、ますますお元気で、そしてエネルギッシュに、私達の前を歩いていっていただきたい、心から思います。
たなかみえ
コンテンツプランナー・ライター
子どものPTAで広報委員を経験したことにより、書くことに目覚める。主婦業、子育てをしながら、40代半ばにしてIT関連、そして教育関連の会社に就職。このときに出会ったたくさんの方たちに支えられ、2013年10月よりフリーランスのライター、コンテンツプランナーとして活動中。人やモノ、場所に寄り添って、丁寧にコンテンツを作ることを心がけています。たくさんの方に支えられて、ご縁をいただいて、今日の私があります。これからも人との出会いを大切に毎日を丁寧に過ごしていこうと思います。
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