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■ 人生の先輩からあなたへ


第7回 鶴丸 礼子さん(服飾デザイナー)

しなやかに凛と日々を過ごすために
「人生の先輩からあなたへ」
会社員でも派遣社員でも公務員でも、医師でも看護師でも、クリエイターでもエンジニアでも、ミュージシャンでも、会社の社長でも主婦でも、どんな職業についても、結婚していてもいなくても、子どもがいてもいなくても、みんな公平に歳をとります。それなら、人生が終わるその日まで、いきいきとしなやかに毎日を過ごしたいもの。私たちの前を歩くすてきな先輩たちのお話にそのヒントを学びます。
鶴丸 礼子さん
服飾デザイナー
鶴丸さんのデザイナーとしての一歩はジバンシーのアトリエからと聞きました。
幼稚園の頃から、お人形さんの洋服を自分で作るような子どもで、いつかは洋服を作る人になりたいと思っていました。デザイナーかメーキャップアーティストか歌手かと迷ったけれど、結局、服飾の道に進むことに決めて、短大卒業後に文化服装学院に入学したんです。

在学中に文化服装学院を卒業してジバンシーで働いている人がいることを耳にして、面識もないのに「私も」とすぐに電話しました。その方は、当時ジバンシーのアトリエで縫製のチーフをしているようなすごい人だったの。

「今、スタッフが一人足りないんだけれど、受けてみる?」って。すぐに受けて採用になりました。 それからがもう大変。昼間はアトリエで縫製の仕事をして、終わったら学校に通うんですよ。学校から帰ったら、夜通しで次の日着て行く自分の洋服を作る。

1回着た洋服は2度と着たくない。そのくらい洋服が好きでした。毎日3時間しか寝ないで洋服を作り続けていたら、血尿が出て体中がかゆくなって、肝機能障害だって言われました。体がぼろぼろになっていたんですね。そんな仕事の仕方をしていたので、結局縫製のチーフに「あなたはこの仕事は向いていない」って言われました。
せっかく入ったアトリエを辞めたんですか?
ジバンシーを辞めた翌日には、フランスとイタリアに出発していました。フランスにあるジバンシーのアトリエにどうしても一度行ってみたかったんです。帰って来たら今度は自分の足でアメリカ大陸を1周してみたくなり、そのためには免許証が必要だからと、すぐに自動車学校に行きました。国際免許証を取った翌日には、アメリカ行きの飛行機に乗りました。 ひとつのことに夢中になると周りが見えなくなっちゃうんです。決断してから行動するのではなくて、行動しながら決断するタイプなんだって、後から気付きました。

帰国したときには、「服飾でやっていこう。自分のブランドを立ち上げよう」と決めていました。出身地の大阪か東京か考えていましたが、「せっかく資格があるんだから、親元で幼稚園の先生に」と、説得される形で両親の住む大分に戻りました。結局半年間、幼稚園で働きましたが、私がそれまで作った服はみんな奇抜で、幼稚園に着て行ける服がありませんでした。心配した母が普通の洋服を買ってきてくれましたっけ(笑)。
そして結婚されました。
その後離婚することになりましたけど、知り合って3か月で結婚しちゃったんです。24歳のときです。小さい頃から「変わった子」だって言われてきましたけれど、どう変わっているのか自分ではわからなかったんです。だから、とても普通にあこがれていたし、普通になりたかったんです。「公務員であるこの人と結婚したらきっと普通になれる」。そう思いました。両親も「女性は家庭に入って子どもを育てるもの」という考え方でしたから。

でも結婚している間は、いつもどこかで違和感を感じていました。結局子どもが9歳のときに離婚することになりました。結婚してからも人に頼まれて洋服を作ったり、藍染の個展を開いたりしていたんです。自分の作品を売るギャラリーを経営しながら、興味のあった建築の仕事も始めました。

そこで障がいのある方の洋服づくりを始めるきっかけとなるバリアフリーに出合いました。ある障がいのあるおばあちゃまを想定した家を造るなかで、たくさんの福祉関係のかたとも知り合いになって、障がいのある方の洋服を作るということをそれまで考えたこともなかったことにも気づいたんです。
そこから独自の鶴丸式製図法が生まれたんですね。
障がいのある方の洋服を作るなかで、鶴丸式製図法は生まれました。歪みに合わせて洋服を作るために、身体のどこを図っていいのかわからなくて、時間がかかりました。よかったりだめだったりと試行錯誤を繰り返して、身体の前側の左右と後ろ側の左右、合わせて46か所を図る今の採寸法にたどり着いたんです。

労力はかかるけれど、確実に身体に合った洋服ができる。1回目に来ていただいたときに46か所を採寸、すぐに原型を作ります。希望されるデザインに合わせて製図をする。その型紙を基にシーチングという生地を使って本番と同じ洋服を作ります。2回目にそれを着ていただきながら、ゆとりをもっと入れよう、身体にピチッと合わせよう、丸襟にしようなど、調整します。そしてそのとおりに本番用の生地で洋服を仕立てるんです。

つまり同じパターンの洋服を生地を変えて2枚作るということです。 最初のうちは、口コミで、九州や岐阜、東京など、全国のいろいろな場所から依頼していただきましたが、お金をいただくことができなくて、プレゼントしていました。飛行機や新幹線などの交通費も自腹でした。でもそのおかげで今の鶴丸式製図法が生まれたんです。お金は遣えばなくなるけれど、技術は使えば使うほど腕にたまっていくものなんですね。
鶴丸さんは障がいのある方の洋服だけを作られている……のですか?
よくそう言われるの。「普通の人の洋服も作れるんですね」って(笑)。でも、普通って何なんだろう? 今、障がいがなくても、明日から障がいをもつことになるかもしれないし、歳をとって、腰が曲がったり、歩けなくなったりするかもしれない。最初から障がいがある、ないで分けてしまっていること自体がおかしいと思うんです。

障がいのある人の洋服が作れるということは、どんな人の服も作れるっていうことでしょ。「障がい」という言葉だけが独り歩きして、いいことをしているって書かれたり、言われたりすることに、違和感を感じます。私にとっては障がいはその人の個性のひとつにすぎないし、私の仕立てた洋服で笑顔になってほしいという気持ちは、障がいのあるなしで変わることはありません。言い方を変えると、「障がいがあっても着られる服を作っている」ってことかなぁ。
誰に対しても先入観をもたれていないんですね。
昔から、「あなたは人に対する先入観がまったくないのね」と言われていました。相手が偉い人でも、障がいがあっても、突進して相手の懐に入っちゃうみたい。日本人が障がいのある人に対して先入観をもってしまうのは、教育の現場でそれを教えていないからだと思います。

車いすの人がね、「『何かお手伝いしましょうか?』って言われるのがとてもいやだ」って言うのを聞いたことがありますよ。でも、障がいのある人と付き合いたい、手助けしたいという気持ちはあっても、学校で教えてもらっていないから、どう接していいかわからない人がたくさんいることも事実。

私は障がいに先入観も偏見もないけれど、彼らと共通言語で話すために、たとえばALS(筋萎縮性側索硬化症)がどんな風に進行していくのか、全国にどのくらいの人がいるのかなど、一生懸命勉強しましたよ。

知識がなければ洋服を作れないし、共通言語で話ができるようになると、「ああ、この人は理解してくれているんだな」って心を許して、お医者さまでも知らないようなことを教えてくれるようになるんです。彼らの話で本を一冊書けるくらいです(笑)。
「障がいがあっても着られる服」を作れる人をもっともっと増やしたいですね。
鶴丸式製図法を世界標準にしたいと考えています。厚生労働省の技能検定のなかに、障がいのある方の洋服を作るというカテゴリを設けていただきたい。また、技術に特化した5年制の高校を作って、卒業までに2級技能士を、さらに専門的に勉強したい人は、大学3年に編入、卒業までには1級技能士の資格がとれるように、教育現場やシステムを変えてほしいと思っています。

そんな面倒なことをしないで、例えばインテリアコーディネーターやカラーコーディネーターの資格制度のように、任意団体を作って資格免許を発行した方が早いんじゃないかとアドバイスしてくれる人もいますけれどね。今は時間を作っては上京し、厚生労働省や文部科学省に通っていますよ。まずは、国や制度を動かさなきゃね。だから暴走しているって言われちゃうんですけど(笑)。

今は、「鶴丸式製図法を教えてください」という人にはお金をいただいて、契約書を交わしたうえで、弟子になってもらっています。弟子になって、まじめにアトリエに通えば、1年後には人の洋服が作れるプロになれます。契約期間は無期限です。私が生きている限りは、プロとしてやっていくための面倒をみますよ。ただ全国、さまざまな場所から問い合わせがあるので、商標登録している「服は着る薬」を店名にしたのれん分け制度を作ろうかなと考えています。都道府県に1店舗ずつ「服は着る薬」があったらいいと思いませんか?
東京ウーマンをご覧になっている方にメッセージをいただけますか。
まずは飛んでみて! いろいろ思ったり相談したりするより、まずは行動しなくちゃ。誰かに相談するということは、自分の考えをもう一度確認するため。自分がはっきりとした答えや考えをもたないままに人に相談するのは、相手にとっても迷惑ですよ。

また、こんなはずじゃない、もっとできたはずって思うのは、自信過剰だからだと思いますよ。自分の力を過信しすぎると落ち込みます。できなくても、私はこの程度なんだと思えたら、そこからまたスタートすればいいんです。 私は洋服を作ることが本当に好き。ときどき病気かって思うくらい(笑)。

好きなことだから、一晩寝れば疲れがとれるんですね。技術的には私以上にすばらしい人はいっぱいいます。でも、製図に関しては、私以上の人はいないと自信があります。本当は、鶴丸式製図法を自分だけのものにしようかと思ったこともあったけれど、自分ひとりで対応するのは難しいので、誰でも作れるように、図解を載せた連載を始めました。自分だけのものにしようと執着しなくなったことは、結果としてプラスになったように感じます。

自分の人生を振り返ると、いろいろなことがあって、その時は死んでしまいたいと思うくらい悩んだこともあります。でもすべては時が解決するんです。でも、時間という概念は人間が作ったものです。だからそういう概念に捉われるのをやめよう、今はそう思っています。
鶴丸 礼子さん
服飾デザイナー。ジバンシーのオートクチュールを経て独立。ブランド「Brabee」主宰。厚生労働大臣認定1級技能士、同認定職業訓練指導員。1回の採寸で、どんな体型の人にも補正不要の的確な型紙を起こせる「鶴丸式製図法」を考案。その他数件の服飾関連特許も取得。東京医科歯科大学大学院をはじめとする医療機関と連携して障がい者の衣服開発にも従事した経験から、「服は着る薬」というコンセプトを制作の原点に据え、後進の育成にも励む。大分市に構えるアトリエでは、ブライダル衣装から着物のリメイクまで各種誂えの注文に対応しています。鶴丸さんの作る洋服の数々はブログで紹介されています。
鶴丸礼子の「服は着る薬」
HP: http://kirukusuri.exblog.jp/
鶴丸礼子さんとお目にかかって
大分を中心に活動されている鶴丸さん。東京ウーマンじゃない!? でも、鶴丸さんの活動は、住む場所を越えてもっとグローバル。ワールドワイド。東京ウーマン読者のみなさんに、きっと素敵なメッセージをくださると確信して、取材に臨みました。

「障がいのある方の洋服を作る鶴丸さん」。お話を伺うまで私もそう思っていました。でも鶴丸さんにとって障がいのあるなしは、人としての個性のあるなしと同じ、特別なことではありません。鶴丸式製図法が生まれたきっかけは障がいのある方の洋服を作ることでした。

しかし鶴丸さんがめざすのは、着る人の個性を最大限に引き出し、笑顔を産みだす洋服を作ること。 この記事に載せる写真を撮りに大分のお店にお邪魔してきました。ちょうどお店には鶴丸式製図法を勉強しているお弟子さんが3人。鶴丸式製図法を基に、それぞれの作りたい洋服を作っていました。

わからない箇所はそばで見守る鶴丸さんに質問、その場で疑問を解決していきます。これを繰り返すことで、お弟子さんたちは鶴丸式製図法を身に付けて、それぞれの人の身体にぴったり合った洋服を作れるようになるのだそうです。 鶴丸さんは先を見据えています。

鶴丸式製図法が全国に広がれば、障がいのあるなしに関わらず、着る人にぴったり合った洋服を着た、笑顔の人で日本を、世界をいっぱいにするために。それをめざして、鶴丸さんは今日も奔走しています。 私も一番私らしく見える服を作りたくなりました。
たなかみえ
コンテンツプランナー・ライター
子どものPTAで広報委員を経験したことにより、書くことに目覚める。主婦業、子育てをしながら、40代半ばにしてIT関連、そして教育関連の会社に就職。このときに出会ったたくさんの方たちに支えられ、2013年10月よりフリーランスのライター、コンテンツプランナーとして活動中。人やモノ、場所に寄り添って、丁寧にコンテンツを作ることを心がけています。たくさんの方に支えられて、ご縁をいただいて、今日の私があります。これからも人との出会いを大切に毎日を丁寧に過ごしていこうと思います。
HP: office makanaloha