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関口 暁子 文筆家/エッセイスト doppo
大変なとき、嬉しいとき。ときに支えられ、ときには今以上に輝きを増すことができる。「言葉」というものは不思議な力を秘めています。今、私たちの目の前のステージにいる「あの著名人」も、誰にも知られず努力を重ね、感謝を繰り返し、ここまで生きてきたのです。 彼らがその長い「活躍人生」の中で支えに…
あなたに届け、輝く人の、輝く言葉(新シリーズ) キャリアアップ 2015-06-17
世界のレジェンド「三浦雄一郎」さんの言葉~新連載『言葉のチカラ』~

「世界のミウラ」と聞けば、誰もが知るプロスキーヤー・冒険家の三浦雄一郎さん。今年10月に83歳を迎える高齢者(自称)とは思えないパワー漲る雰囲気が、遠くからでもわかるほどです。三浦さんが80歳のとき、エベレスト登頂を果たし、ギネスブックに載ったというのはみなさんの記憶にも新しいのではないでしょうか。

強靭な肉体に、不屈の精神。人並ならぬ才能を生まれ持っていたと誰もが思うことでしょう。

しかし、そうではないというのが人間の面白いところ。三浦さんはなんと「元祖・引きこもり」だったと学生時代を述懐します。

引きこもりの元祖が、「世界のミウラ」になるまでの道のりはどんなものだったのでしょうか。その体験から紡ぎだされる言葉には、足踏みしがちな私たちの背中を推してくれる力強さがありました。

 

「失敗が人を大きくする」、「打たれればこそ、人は強くなる」

失敗しつづけたから、こうやって胸を張って言えるんですよ。

 

三浦雄一郎さんの最初の「失敗」は、小学校の転校でした。それまで野山で駆け回っていた「がき大将」でしたが、遊びに精を出し過ぎ(?)、父が心配をして進学校へと転校させたのでした。しかし、「強制」でされる勉強も体育も、自然児の三浦さんには性に合わないこと。「病気になれば学校に行かなくてよくなるんだ」と思い込んでいるうちに、本当に大病を患ってしまうのです。まさに、「病は気から」。学校からの逃避の末、三浦さんは長期入院を余儀なくされました。

ところが、ある意味望んでいた「長期欠席」。学校での勉強は嫌いでしたが、病室ではむさぼるように本を読んでいて、入院生活は飽きることがなかったそうです。

「富士山やエベレスト直滑降などで三浦雄一郎の名が新聞・テレビに出ても、当時の同級生は同姓同名の“ミウラ・ユウイチロウ”だと思っていたでしょうね」と言って笑います。

しかし、次の失敗は三浦少年の心を深く傷つける出来事でした。長期欠席がたたって、中学受験に失敗。小学六年生にして、「浪人生活」に入ります。

「ほかに誰も落ちていないのですから、それは落ち込みました。このときは本当に押し入れの中に引きこもっていました。正真正銘の『元祖・ひきこもり』です(笑)」

そんな三浦少年の目を覚まさせたのが母親でした。三浦さんの祖父は国会議員でしたが、長い議員生活の中で落選することもあったと言います。それでもいつも気概のある祖父をたとえて、こう言ったそうです。

「あなたのおじいさんなんか、一度落ちたら4年も浪人するんだよ。でも落ち込んでいる暇なんてない。あなたはまた来年があるじゃないの。一年くらい浪人したって、どうってっことないじゃないの」

そのとき、頼もしい祖父の顔と母の力強い言葉がリンクし、「大したことないじゃないか」とふっきれたそうです。そしてむしろ、大人になるにつれ、失敗ほど大切な経験はないと強く思うようになっていったのでした。

 

周囲の期待するような「枠」にはまる必要はありません。

僕はいつも枠からはみ出しっ放しだったけど、

だからこそ見えた「山」があります。

それに、誰にもできないことができたら、死んだって惜しくない。

 

その後、登山家だった父・敬三さんの「息子を丈夫にしたい」という思いで登山に連れて行かれ、スキーを教わると、三浦さんはその才能をめきめき発揮していきます。

もともと読書家だった三浦さん。北海道大学獣医学科に入学し、学術の面でも才能を開花します。ところが大学卒業後、若くして助手になる、という一歩手前。スキー一本で生きるべく、婚約中の身でありながら大学を退職してしまいます。同棲中だった後の奥さまも「あなたには派閥争いは向かないと思ったわ」とあっけらかんとして、三浦さんの背中を押したそうです。もともとスキーヤーだったという奥さまの度量の深さも、女性としては惚れ惚れしますね。

将来を嘱望された二十代の三浦青年は、そこからまた「枠」をはみ出します。

優勝した日本選手権予選の閉会式で、全国大会への枠を巡って意見を述べたところ、賛同する声が会場を埋め、閉会式は大混乱に。「三浦のせいだ。生意気な奴だ」と委員から言われ、なんと「スキーアマチュア資格はく奪」を言い渡されたのです。

スキー一本で生きていこうと思っていた矢先に、アマチュア選手として戦うこともできなくなった三浦さん。目指していたオリンピックへの道は、こうして既得権益の弊害によって閉ざされたのでした。

そこで屈しないのが「世界のミウラ」。日本で活躍できないなら、世界へ出ればいい。そうして「世界のミウラ」への道を歩み始めたのです。

しかしいくら日本ではトップ選手の三浦さんでも世界の壁は厚いもの。しばらく山小屋に荷物を運ぶボッカの仕事をして足腰を鍛えるなど、並々ならぬ努力を惜しみませんでした。そこには「元・日本を代表する選手」「元・気鋭の学者」という過去へのプライドはみじんもなく、三浦さんの目には、目の前に広がる未来だけが見えているのでした。

真の強さとは何か、三浦さんのしっかりとした眼差しが訴えてくるようです。

 

その後も数々の世界記録を打ち出した三浦雄一郎さん。じつは一度は医者から、命さえも危ういと言われるほどのメタボ体型になり、標高500メートルという小山でゼイゼイと休んでいるときに、幼稚園児から「がんばれー」と言われたこともあったという60代を経て、あの80歳にしてのエベレスト登頂を果たします。

独自の視点で「自分にしかできないこと」を模索し、挑戦し続ける世界のレジェンドからは、次々と珠玉の言葉が飛び出しました。「次の目標は85歳で標高8400メートルからのスキー滑走」と話す三浦さん。最後に力強く、こうおっしゃいました。

「人生は、いつも『今』から」。

自ら「高齢者の希望の星」と笑う三浦さんの笑顔が印象的でした。


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