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■ 未来へ繋ぐ女性の生き方


~亡命。そして世界を駆ける女性の生き方~ 自由というひかりを求めて

~亡命。そして世界を駆ける女性の生き方~
自由というひかりを求めて

自由が叶わない国に生まれ、幼い時には国の経済難から家庭環境もままならず、過酷な環境に育ち・・・。しかし、4度の亡命を経て脱出し、現在は日本で暮らす女性がいます。
北朝鮮は、1990年代の社会主義圏の崩壊、金日成元主席が死去したことに影響を受け経済難と自然災害によって国力が急激に衰え、95年からの3年間の餓死者数は300万人に及ぶともいわれています。この頃から他国へ脱北をする人々が増えました。
高安京子さんはその一人で、10代で何度も亡命を試み、4回目にして日本へ。日本では中学から大学まで昼は学費と生活費を稼ぎ、夜は勉強に勤しみます。その後、仕事をしながらネパールの子供たちの学校建設を支援する等、社会貢献活動も続けています。
不遇な環境の中、命がけで脱北し、他国でゼロから道を拓いてきた軌跡。ネパールで、生まれてはじめて「生まれてきてよかった」と感じた出会い。これまでの人生と今の気持ちをお話し頂きました。
1990年代の大飢饉、経済難の時代。きっかけは中国を知って
1990年代は国の経済難と大飢饉から飢え死にした人が沢山いた時代で、2日間何も食べられないことがあったり、山菜を摘んだり松の皮をはいで食べたりもしました。孤児になった子どもたちが街にあふれ、中国へ渡り農村部で空腹を満たしたり、食糧を手に入れてくる人がいれば、川で溺れて死ぬ人、国境警備隊に銃殺される人もいました。
当初は脱北の意志はなかったのですが、家計を支えるために、中国へ行くことになりました。15歳の時です。父は中国にルーツを持っていたため、親戚に食糧と物資の支援を求めて。1週間過ごしたのですが、物に恵まれ、自由がある国であることを生まれて始めて知ることになります。
北朝鮮・中国の国境の川(イメージ)
荒んだ北朝鮮の国の状況もあって、親子の愛情を感じられない家庭で育ちました。男性が女性に暴力を振るうことは日常で、顔の半分があざになっている女性も多く、幼いころから心が痛みました。女性の殆どは、20歳を過ぎたら結婚して家庭の中で生涯を過ごします。私はそれより自立して、自分の人生を生きていきたい気持ちが強くありました。
困窮を生き抜いた子ども時代、‘出生身分’という差別
私の母は2歳の頃に離婚して、朝早く仕事に出て夜遅く帰ってきていたので幼い頃から一人で過ごすことが多かったのです。山に囲まれる田舎で大変寂しく過ごしました。7歳で母が再婚した頃、国の経済難で急激に貧しくなりました。何日も家を空けることもあり、冬は手足が凍るほど冷たくなり、燃料がなかったので、家の物を売って材料を買い、揚げパンやアイスキャンディーをつくって路上で売り歩いて生活費にしたこともあります。母方の祖母が日本人だったことで母も差別を受け、職業もままならなかったという理由もあります。7歳の時に義理の弟が生まれたのですが、それから義理父の私に対する虐待がはじまりました。親から生まれた弟に対しては愛情が注がれても、私は抱きしめられることもおんぶしてもらえることもありませんでした。
そんな境遇から、一度でもいいから男性を殴ってみたい、という理由でテコンドーをはじめたのです(笑)。中学では重量挙げとテコンドーでトップクラスの選手となります。ところが祖母が日本人、祖父は在日朝鮮人の帰国者で、‘出生成分’が悪いとみなされ、成果を出しても代表に選ばれないのです。身分が低いままでは何もかなえられない、国を出たいと考えていました。
中国からの強制送還、北朝鮮での2度の収監。
はじめての脱北は、ブローカーにお願いし、国境警備員にわいろを渡し、夜に川の浅瀬を15分かけて渡りました。中国に滞在してお金をつくり、帰りにもわいろを渡して川を渡って戻りました。が、お金もすぐに尽きてしまい、翌年、ひとりで2度目を決行します。国境の近くまで列車で移動し、川を渡っている時、中国の公安に捕まってしまいました。北朝鮮へ引き渡され約1か月間、留置所に入って。亡命する意志で逃げた人たちは、刑が重いのですが、飢えや中国へのビジネスが理由の人は刑は軽くなります。18歳までは未成年なので酷い拷問は受けませんでしたが、留置所内では悲鳴が絶えませんでした。人扱いされず、男女関係なく殴打されます。妊婦さんもいましたが、革靴で蹴られ流産させられていました。
イメージ:韓国緩衝地帯
自国では食べていけないから脱北するのに『国の裏切り者』とされ、納得がいきませんでした。その時、私は決めました。こんなに恐ろしい国には住めない、そして必ず脱出すると。強制送還されて捕まったとしても、死を覚悟して何度も脱北する人も多く、中には10回以上捕まっている常連もいて、兵士と親しくなっている人もいました。
 
4度目、冬の凍てつく川を渡り19歳で日本へ
3度目は翌年17歳の時。親戚と一緒で川を逃げ切ったのですが、中国で電車に乗る時、質問に中国語で答えられず、捕ってまた留置場に入ることになりました。4度目は19歳の時。計画していた親戚についていくことにしました。ブローカーを雇い、国境の川を越え、中国でも朝鮮族が多く住む延吉市で、縁ある家を訪ねて住むことになりました。日本赤十字宛に手紙を書き、日本大使館とのやりとりがはじまり、それから半年が過ぎたある日、北京の日本大使館へ行くことになり、臨時パスポートがつくられて。3週間後、大使館の職員と飛行機で成田へ到着することになったのです。もう、夢のようで何度も頬をつねりました。
日本に来てすぐの頃
恩人との出会い、学費は自分で
日本へ到着すると、驚いたことに日本の大使館職員は韓国の民団へ私たちを引き渡しました。民団がサポートすることに疑問を持ちながら、日本人ボランティアの方が家を用意してくれました。日本語を勉強するための中学校を探してくれたのですが、北朝鮮とは比較できないほど人も学校の先生たちも親切であたたかいことに感動しました。
夜間中学校に通いながら昼間はアルバイトをしました。言葉が話せないので中華料理屋の皿洗いから。クレープ屋のバイトでは一日中しゃべり通しで会話を覚えられました。休日は図書館で勉強して。そんな甲斐あってか、中学3年の時には生徒会長になり、8つの中学の生徒たちの前でスピーチする機会を頂いたりと、自信が生まれてきたのです。
イギリスへの交換留学
高校は正社員で働きながら定時制に通うことになります。勉強の難易度は高くなり、外国人も学年に3人しかいなかったことかとても不安でした。が、命を賭けて日本に来た限りは頑張ろうと思いました。高校ではイギリスに交換留学をする機会もありました。国際交流部を外国人3人で立ち上げ部員を増やし、都全体の国際交流の会では実行委員長もつとめることになります。東洋大学の二部に入学し、仕事の事情で退学をしたのですが、大学に行けるなんて北朝鮮と比べたら夢のようで。国際地域学部で学んだこと、自分の人生の経験から、人々がお互いを理解し、自由に暮らし、自由に移動できる世界を作りたい。そう願いながらいろんな国を訪ねるようにしています。2012年には日本国籍を取りました。「高安」の姓は最初に住まいを貸してくれた恩人と同じです。
卒業式にて
日本にきてよかったこと、祖国への想い
学校に通っていた時は、朝から夕方まで仕事、夕方から夜9時過ぎまで学校、23時に帰宅する毎日でした。奨学金もないので学費はすべて自分で払いました。日本に来て一番来てよかったと思うのは、出生に関係なく、頑張ったら認められることです。まわりから『えらいね、凄いね』と褒められることがとにかく嬉しくて馬鹿みたいに頑張ってこられたのだと思います。北朝鮮では、親にも国にも認められることはなかったので・・・。
学校の生徒さんと
脱北して5年くらいは、川を渡って国境警備員に追われる夢を見ました。脱北をした人たちに共通するようで、恐怖がなかなか消えないのです。また、テレビで北朝鮮が起こしたとされる事件のドキュメンタリー番組を見ても、3年は整理できませんでした。祖国で教えられてきたことは嘘だったと知ると、だんだんとんでもない国に育ったということが分かってきたのです。祖国に対しては、人の自由は奪ってほしくないという気持ち、そしてひたすらよくなってほしいという願いはあります。
難民認定が厳しい日本の現状
他国へ亡命する選択肢もありましたが、結果的に日本に来てよかったと凄く思います。でも、脱北した直後は、日本の政府に対しては冷たい国だと感じました。成田空港へ着いたら放置されてしまい、国籍も貰えず、制度も知らされず、韓国の民団から手続きして貰えましたが、どうしていいか分からない。難民に対してはまだほとんど制度がないとも聞いています。私は最初の3年間は無国籍の定住資格を貰いました。私はひとのご縁に恵まれましたが、弱い立場の方々には何かしらの制度があった方が良いのではと考えます。
 
6歳の時の気持ちが蘇ったネパールの風景
Q:ネパールに学校を建てられましたが、なぜ支援することになったのですか。
高校の頃、ネパールの貧しい地域で活動する日本男性のドキュメンタリー番組を見ていたときのことです。貧しい地域で現地の人たちをサポートしていて。電気も水道も道もない風景だったのです。6歳くらいの時に親の事情で山に囲まれた田舎に住んでいたんですが、母と2人で暮らしていた風景とそっくりで。家から歩いて2時間もかかる井戸から水を汲んで一日中、一人で過ごしてとても心細く、誰かに一緒にいて欲しかったことが心の中に蘇りました。自分ができることをしたいと思いました。
その頃、英語を勉強するためにあるNPOに通っていたのですが、その先生がドキュメンタリーに出ていた男性と知り合いだったのです。帰国した時、会うことになりまして。
貧しくても「学びたい」、子どもたちのために学校建設をスタート
お会いして、早速何かできることはないかと尋ねました。問題は沢山あって支援が追い付かないが、最も必要なのは教育との返答で。学校の数が少なく、特に貧しい家の子どもは、家事を手伝うために学校にいけない、けれども子どもたちの意欲は大いにあることも伺いました。
多額の資金が必要かと躊躇しましたが、15万円あれば、25平方メートルの部屋が1つでき、約30人の子どもが勉強することができると聞いて。すかさず『50万円を寄付しますので、3つの教室を作ってください』と答えました。
『若くしてどうしてそれほどの支援をしようと思うのか』と聞かれました。『脱北し、北朝鮮へ戻ることも家族に会う事も出来ません。色々な人々の助けで今の私があるので、誰かに恩返しをしたいのです』と答えました。後日、学校を必要とする村の通知が来て、早速OKを出しスタートしたのです。
 
日本からの支援で学校はいくつかありましたが、まだなかった英語学校をつくることにしました。当初3部屋でしたが、途中から8部屋の要望がきて規模が大きくなりました。お金も倍以上必要となったので他の支援者を募るか聞かれましたが、支援を続けた限り最後までやり遂げると決めました。高校卒業間近の時、校舎が完成したと連絡を受けたのです。
生まれてきて、一番の幸せを感じた瞬間
いよいよ2010年12月、日本のNPOの人たちとネパールに向かいました。途上国ははじめてでしたが、カトマンズの風景を見て貧困状況に驚きました。街から車で4時間、真っ暗な山道をひたすら進むと夜の9時過ぎ。車が止まると子どもたちが『キョーコ』『キョーコ』と私の名前を呼びながら駆け寄ってきました。だんだん胸がいっぱいになってきて、子どもたちに囲まれた時『生きていてよかった!』と全身に喜びが溢れて涙込み上げました。その時、脱北して死なずに生き延びたことをはじめて天に感謝しました。今まで生きてきて、一番幸せを感じた瞬間でした。
翌朝、学校の引き渡し式が行われ、村の人々と子どもたちの中でスピーチしました。『私はお金持ちではありません。日本で一生懸命働いて貯めたお金を皆さんのこの学校をつくる時に支援しました。ですから皆さんはこの学校で一生懸命勉強して自分の将来や夢をしっかり持って家族や国を愛する人になってほしい』と。
学校は未完成で、椅子も机もなく、日本に戻り支援を続けました。2014年の訪問では窓やドア、壁と床の整備もされ絨毯も敷かれており、職員室にはプレゼントしたパソコンも設置されて。当時通っていた大学の教授3人と一緒で8枚のホワイトボードも寄付して戴きました。2年後の訪問の時には運営できるように落ち着いていました。
結局トータルで250万円を7年間に渡って送金することになりました。完成した学校で勉強する子どもたちの姿を見て更に頑張ろうと私も意欲が湧いてきました。
うまくいかなくてもすぐあきらめない。講演での若い人達へのメッセージ
Q:高校生、大学生へ講演をされていますが、どんなことを話されますか。
「自分の人生は自分で切り開く」というメッセージを伝えています。日本では、家庭や友人との関係でひきこもってしまったり、目標がなく何をしたら良いか分からない若い人たちが多いように感じられます。家の環境が良くないと元気が出ないことは経験から分かるので、環境に負けないで乗り越えて欲しいと、彼らの意見を聴きながら向き合います。親も国も選ぶことはできませんが、自分の人生は自分で考え、つくるよりないと。親を憎んできたけれども、辛い過去を抜け出した体験を若い人たちに話して役に立てたらと考えています。
私自身、大学4年になってネパールの学校の資金を作ろうとレストランを起業しました。ネパールの人たちを3人雇い、VISAの取得と寮を提供して。4年くらい経営をしたものの、赤字が続いてしまったのです。ビジネスの厳しさを味わいました。楽しく通っていた大学も退学をすることになってしまい、いつかまた再入学する気持ちでいます。うまくいかなかったこともあきらめないで挑戦し続けようと考えているのです。現在は医療関係の仕事に従事しながら、世界の子どもたちの未来に携わる気持ちでいます。
国境を超えて、子供たちに生きる希望を伝えたい。
困難は人生を豊かにします。私は命を賭けて国を出て、帰る場所もなく家族に会う事も出来ない、自分の居場所を作らなければならなかった。でも北朝鮮で様々な困難があったからこそ、今は強くなれました。言葉や生活の問題も乗り越えて、悲しいこと苦しい事も多々ありましたが、何に対しても心に向き合って、その結果沢山の人に恵まれて、少しずつ居場所もできてきました。世界中、言葉が違っても心でつながる人はたくさんいるのです。今はこれまでの出会いすべてに感謝しています。
北朝鮮では、親を失った子どもたちをたくさん目にしてきました。子どもには愛情と教育が必要です。将来はそういう子どもたちの為に孤児院や学校をつくりたい、未来を担う子供たちを育てることをしてきたいと思っています。
高安さん、ありがとうございました。
高安京子さん
1984年北朝鮮の北部に生まれる。19歳の時に脱北し、日本へ亡命。昼間は働きながら東京都内の夜間中学・定時制高校を卒業。高校在学時からネパールの貧困地域の英語学校建設に携わる。東洋大学(二部・国際地域学部)入学。大学4年生の時、ネパールの人を雇用したアジアンレストランを経営、経営上の事情で大学を退学、現在医療関係の仕事に従事。
(取材:2018年6月)
【取材後記】
はじめてお会いした時、自由のない恐怖政治から自由と平等を求め、何度もあきらめずに脱北し、実現してもなお若い人たち子どもたちに希望を与える高安さんの生き方に感動しました。好奇な目にさらさせてしまったらという不安も掠めましたが、誰かの役立てればと取材を受けて下さいました。失敗と思えるような経験も『そのまま伝えて欲しい、生きることに苦しんでいる人たちに伝われば』と人を助けたいお気持ちが伝わりました。
書いている時、ひとりの人生とは思えない苦しみというのか痛みのような渦の中にありました。同じ民族が分断され、互いに傷つけあうことの悲哀、翻弄された歴史が紡いだ悲しみ。それらの中に、いまだ光を求めて生きる人々・・・。
故郷を失った絶望や喪失感の中でも、未来を軸に国という枠組みを超えた世界で希望の光を見つけ、力強く生きていく高安さんに、新しいアイデンティティーのポテンシャルをも感じました。どんな境遇であっても可能性に賭けて、必死に取り組んでいく高安さんのバイタリティに触れ、勇気が湧いてくる取材でした。
最後に、多くの北朝鮮に住む方々、自由を求めて生きる人たちへ伝わりますように、そして日本ではいまだ故郷に帰れぬ方々、拉致問題の解決への願いを込めて。
加藤 倫子
PRESS ROOM evangelist
ライター、広報・PR支援を個人事業で行う。ニュースの仕事を通算で8年。社会、政治、国際ニュースをテレビ・週刊誌・Web等の媒体で取材・編集に携わる。他にも金融機関で営業職を4年、会社のPRや新聞広告作成など広報の仕事を任される事が多くなり外部広報・PR業務を受諾、企画支援、新規事業支援、ライター業。報道(メディア)とビジネス両面の経験を強みとし、仕事を展開している。