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■ 音楽の世界を彩る女性たち


音を感じる力と新世界を娘が運んでくれた

音を感じる力と新世界を娘が運んでくれた

Piano duo GENSOJIN
(ゲンソウジン)

日南由紀子さん&持田正樹さん
ソロでもご活躍中のお二人ですが、ご夫婦でもピアノデュオ・ゲンソウジンとして活動されています。お名前の由来を教えていただけますか。
日南:はい。人間という漢字を入れ替えてその間に奏を入れて、間奏人(ゲンソウジン)。 人々の間で奏でていく、という気持ちを表しました。
音楽への思いがこもった素敵なお名前ですね。 12月に日南さんは楽しいコンサートを控えていますね。
日南:はい、静岡県の菊川で「假屋崎省吾の華麗なる世界」というコンサートで演奏します。花と音楽のクリスマスコンサートというテーマで華道家の假屋崎さんを中心にお花のパフォーマンスとトーク、そして演奏を交えた楽しいコンサートです。菊川市制10周年の記念コンサートになります。
おふたりの出会いはハンガリー留学時と伺っています。留学先にハンガリーを選ばれたのはなぜでしょうか?
日南:3才からピアノをはじめて、子供ながらに絶対にピアニストになって世界中で演奏してみたい、オーケストラと共演したい!と強く思っていましたが、まず憧れのピアニストや大好きな作曲家リストがハンガリー人だということがありました。

そしてテレビでハンガリー国立リスト音楽院の映像を見て感激し、またその頃とても小さな男の子がこの名門リスト音楽院の入学試験でリストの超絶技巧である作品を巧みに弾き、皆を驚かせたという話を聞いて私もそこで弾きたい!と、わくわくした事を覚えています。

そして、小さい頃からハンガリーのジプシー音楽にも強く魅かれていました。独特なリズム感が大好きでラジオやレコードプレイヤーなどでよく聞いていました。その音楽からまるで手が伸びてくるような感じがして、私をリズムに誘ってくれるかのようでした。 そんな気持ちから自然とハンガリーに行きたいと思うようになりました。そこに私自身が愛してやまない、求めている音楽があると理屈抜きで感じ取っていたのかもしれません。
ピアノ以外の楽器もご経験がおありと伺いましたが
日南:ピアノの少し前にはヴァイオリンを、祖母が津軽三味線をしていましたので三味線も習いました。民謡は大好きです。中学時代にはドラムもやりました。
幅広いですね。ピアノはお母様の手ほどきと伺いました。
日南:はい、母は声楽家で高校の教師をしていました。私を音楽家に育てるためにヴァイオリン、そしてピアノを教えくれました。毎日帰宅すると着替えも食事もせずすぐにレッスン。厳しい母でした。ピアノは好きでも毎日決まった時間にレッスンをするのは子供ながらに辛かった。5歳からは別の先生にもついてこちらもまた怖くて厳しい練習が続きました。母も先生も怖くて逃げ場がありません(笑)必死に練習を続けました。

ただ、毎日の練習を繰り返していくうちにいつの間にか音楽と自分との関係ができていました。音楽と自分との間には他者はいない。自分の気持ちや感じている風景を音楽に託すことは自然にしていました。絵本を読みながら効果音をピアノで弾いてよく両親に聴かせていたそうです。 とても楽しそうに(笑)。練習はしたくないけど音楽は楽しんでいました。
ピアニストへの厳しい道のり、迷いはありませんでしたか?
日南:実は小学6年生の時に、ショパンのスケルツォ第2番変ロ短調をコルトーの弟子でありパリ・エコール・ノルマル音楽院で教えていらしたピアニスト、ジャン・ミコー氏のレッスンを受けたのですが、その時ミコー先生が是非フランスで勉強しなさい、修道院の学生寮に住みあとは私が面倒をみますと言って下さいました。私は完全にその気になっていました。ハンガリーではないけど近くに行って勉強できると!

しかし、両親が私を心配なあまりお断りすることに、ショックでこれからどうしようと混乱してしまいました。それから色々な疑問が出てきて、私の音楽はこれでいいのか!練習に夢中になりながらも戸惑いの連続でした。中学での3年間はそんな気持ちのまま、必死に自分らしさとその方向性を探っていた感じです
その後音楽高校からハンガリーのリスト音楽院に進まれるのですね。
日南:はい、桐朋女子高等学校音楽科へ入学しました。 ですが、その環境に段々と違和感を覚え、まるで心が閉ざされた様な自分自身、そしてそんな私の奏でる音楽に全く納得がいかず相当に悩んでいました。自分の迷いや悩みをピンポイントで受け止めてくれる相手を探しました。それは友人でも先生でも両親でもなかった。次第に小さいころからあこがれていたハンガリーのリスト音楽院に行きたいと強く思うようになりました。

もちろん周囲は大反対。両親はもちろん、ぶつかりながらもとてもよくしていただいた担当の先生も大反対。職員室に呼ばれたりして大変でした(笑)反対の猛攻撃をうけながらもどうしてもこの国をでてハンガリーへ行くのだとその一心しかありません。どうしてよいかわからず、自分でハンガリー大使館に相談しに行きました。

周囲も少しずつ耳を傾けてくれ、両親の手筈で当時北海道にいらしたリスト音楽院ピアノ科教授のラントシュ・イシュトヴァン先生に演奏を聴いていただく機会を得ました。そのご縁でリスト音楽院に録音テープを送ることになったのです。私は運気が変わり始めたと思いとても嬉しかったです。

演奏を聴いてもらえればチャンスは大いにある!と。そしてその録音テープの演奏をリスト音楽院の教授に受け入れていただいてとうとう留学が決まりました。わたしの粘り勝ちです(笑)最終的には先生方も応援してくださいました。 結局、高校在学中にリスト音楽院の試験に合格できたので、卒業を待たずにリスト音楽院に入学しました。
熱意の賜物ですね。 念願のハンガリーです。留学生活はいかがでしたか?
日南:ハンガリーへ行ったのは民主化になる2年ほど前でした。厳しい時代でしたし、当時18歳のわたしにはかなり過酷でした。あらかじめ決められていたはずの住まいのインフォメーションメモを手に握りその場を訪ねてもそんなものはなく、住む場所探しから始まりました。

まず生活をどうにかしなくてはいけないのですから大変です。どんよりした灰色の空の下で住宅を探しピアノを探し、生活の一からをすべて自分でやってのけなくては始まらない。 それでもやはりここにたどり着いた喜びと同時に「やっとスタートラインに立った」と心底思いました。

今までしてきた勉強、音楽に対する思い、悩んだこと、迷ったことはもちろん積み重ねたものとして決して無駄ではなく私の中に依然としてあるはずですがそれはそれとして一旦クリア。強く望んだこの地での勉強に全身で取り組める、さあやるぞ!という感じです。

この国の芸術に対する要求の得体のしれない底深さ、厳しさ、つきぬけるような純粋さは圧倒的で、すぐにでもまるごと飛び込んでいかなくてはならなかったのです。 ここにくるまでのわたしの枯渇感のようなものは瞬く間に消えましたが、それ以上に勉強しなくてはならないことがあとからあとから目の前に押し寄せてくるのです。
持田さんとはハンガリーでお会いしたのですね。
持田:音楽院での朝から晩までの練習の休憩時間、ビュッフェ(音楽院のカフェ)いつも話していたのが出会いです。
持田さんもやはりハンガリーに強く惹かれて留学を決められたのですね?
持田:大学の担当教授リスト音楽院のトゥシャ・エリジャーベト先生に勧められました。 僕も音大時代は迷いましたし、進路にも大分悩みました。両親は僕が音楽の道に進むことに反対していました。 ですが、担当のトゥシャ先生に君はヨーロッパで勉強した方が似合っているとアドバイスを受けその一言ですぐにハンガリー留学を決心しました。

西欧諸国は様々な国の音楽家や音楽観を受け入れオープンですがハンガリーは芸術においても鉄のカーテンがあると言われていたくらい伝統を重んじて他を寄せ付けず、非常にストイックでした。戦争体験をされた方も多く過酷な中でいつまで音楽を続けられるかという緊張感をもちながら勉強を続けてきた彼らの話もよく聞きました。純粋に音楽を求めて生きてきた彼らの人生にもするどく張り詰めた芸術性をひしひしと感じながら僕はその人たちと歩調を合わせたいと思っていました。

そうです。僕はハンガリーが大好きで僕自身にはハンガリーが合うと思い、その厳しさをすべて受け入れていました。特にそれまで周囲に反対され続けていたので誰にも邪魔されず音楽ができるという喜びがありました。ハンガリーの音楽生活にどっぷりつかり楽しんだほうです。
おふたりとも現地で民主化を経験されました。 音楽をとりまく環境も変わったと思いますがその辺はいかがでしょうか?
日南:西側のやわらかい風が入りこみ、表現の自由が少しずつ入り、純正品のようだったハンガリーの音楽家たちも様々に枝分かれしていきました。 開放前は国の手厚い保護のもとに芸術家を教育していますので、ものすごいものが出来上がっているという印象です。

その後半にわたしは留学生活を始めました。先生や生徒たちの芸術に対する尊敬の念や考え方が極度に研ぎ澄まされていて、なに者にも踏み入れられていない。それがわたしには面白くて刺激的でした。私はその容易に真似できない鋭さを受け止めていましたしそれは私自身の中で今でも生きています。

持田:解放前の音楽教育はとても厳しく、何もないといっても言い過ぎではない質素な環境、張り詰めた空気の中で最初の一音を出すことに非常に研ぎ澄まされた高いレベルのものを要求されます。偉大な作曲家が残したこの曲の最初の一音が聴衆の心に届くように、この一音が聴衆の心に届かなければ弾く必要ないとまで思わせるわけです。 僕はその中に文字通りどっぷりつかっていました。

1990年を境に少しずつですが、街の様子も変わり、明るくなるにつれて音楽も自由な往来、ができるようになりました。国に支えられていた音楽家たちにとっては良い面も悪い面もありますが芸術という大きなくくりでとらえると、それはさけられないうねりであり、ハンガリーと西側のそれぞれの高い芸術性と精神世界が融合するのはとてもよいことだと感じました。
デュオを結成されたのはいつでしょう?
持田:留学の後半1996年、ハンガリーシンフォニックオーケストラとモーツァルトの2台ピアノのコンチェルトを弾く機会をいただきそこで演奏したことがきっかけです。
その後日本に帰国されたて続けにコンクールで優勝なさっています。 ウィーン国際音楽コンクール全部門を通して優勝、イタリア・イブラグランドプライズ国際音楽コンクールではデュオ部門最高位、カセッラ賞、ソロ部門優勝、モーツァルト賞、バルトーク賞などなど、他にも数多く受賞されています。 その後のお二人の活躍をお聞かせください。
日南:受賞してカーネギーホールをはじめアジア、ヨーロッパ各地で公演をさせていただきました。もちろん国内でもいろいろなホールで演奏会をさせていただいています。 演奏会と練習の日々です。もちろんピアノを教えることもしています。 娘が生まれてからは子育ても加わりました。

持田:僕はデュオとソロの演奏活動とともにピアノ指導者の育成、メソード開発、全国での講座やレッスン、著書は16冊にのぼります。そしてもちろん彼女に負けないくらい子育てもしています(笑)!
おふたりでケンカはなさいますか?
日南:はい。デュオの練習中においてはお互いのすべてをぶつけあいます。 とにかく自分が少し違う、、と思うと遠慮会釈なく相手にぶつけます。納得するまでお互い譲りません。ちょっとすさまじいくらい(笑)

鍵盤の上で相手の指をたたいても、ペダルを踏むときに相手の足を踏んでも、ドレスが破けても当然ですが音楽が優先ですので、痛いこともドレスも問題ではありません。 相手に遠慮があるとお互いに自分にも相手にも望む演奏ができません。ですが、意見を言い合い、ケンカをすればするほど本番の演奏は良くなります(笑)

ケンカはぶつかりあいですがコミュニケーションのひとつなのですね。 でも演奏会の1週間ほど前からはどんなに険悪でも(笑)お互いに本番に向けての集中に入りますのでそれどころではなくなります。 その積み重ねのおかげで今はケンカもせずたのしく弾けるようになりました(笑)
お嬢さんは今年小学校に入学されましたね。これはお子さんをお持ちのアーティストによくお訊ねするのですがお嬢さんを出産なさり変わられたことはありますか?
日南:娘を生んだ後のわたしの音楽はガラッと変わりました。 私自身が一変したといってもよいと思います。 出産10日後に演奏会があったのですが。
え!そんな無茶な!
日南:本当に驚いたのは演奏中、それまで聞き取りにくかった和音の中間部分が見事にクリアに聞こえたのです!濁っていた内声がよく聞こえてくる。音のハーモニーが聞こえてくる。これは何だろう、音を感じる力を娘が運んできてくれたのだ!と思いました。 ハーモニーは2音より3音、家族が三人になり調和して本当のハーモニーが聞こえる。 大きな感動ともに娘を授かったことに心から感謝しました。 それだけではなくその後は選曲も変わり演奏活動も以前より積極的になりました。

出産前、若いころは一貫して一音出すことに非常にストイックで自分に厳しく、少しでも不安なところがあると人前で演奏することが怖かったのですが不思議とそれがなくなりました。気持ちが晴れやかになり、何かの重石がとれたように弾きたい、と思う気持ちがあとからあとから湧いてくるのです。 そしてピアノで歌う感覚がむくむくと湧き上がって、娘のおかげで感じられるようになったハーモニーの中でメロディがやさしく囲われているようなイメージで歌を歌うように弾くことがとても楽しいのです。

母の影響で歌はもともと好きなのですが、今は母性をうたったものを好んで弾いています、例えばリストが編曲したオペラ等、リゴレットやトリスタンとイゾルデ「愛の死」などです。これからも積極的に弾いていきたいと思います。 娘が小学校に上がってからは私もにわかに忙しくなりましたが日々成長する娘と過ごす時間はかけがえのないものです。子供らしいつぶやきにも私の中に響きあうものを感じ毎日がとても楽しいです。
素晴らしいお話ですね。子を産んで育てるという自然の営みがハーモニーをもたらしてくれたのですね。
日南:すれ違う見知らぬ人にも人間として愛情を感じる優しく不思議な気持ちになることがあります。 これもやはり娘との幸せなひと時がもたらしてくれるものだと思います。 色々と制約のある作曲活動の中でも素晴らしい作品を生みだしていたモーツァルトやベートーベンなどその他の偉大な作曲家たちも、段々と心にあるがままのものを作るようになっていった様な気がします。

そして最終的には「万人」に捧げる曲にたどり着いています。 モーツァルトはオペラ「フィガロの結婚」で伯爵に最後の場面で最も美しい歌を歌わせています。これは一番の悪役だった伯爵が許しを請う歌です。ここにモーツァルトの音楽観があると、これはある評論家の言葉ですがわたしはこの表現が大好きです。どんなに人々を愛し、音楽を愛し、そして人の幸せを深く考え願い音にしたのかがあまりに感動的で! 本当に素晴らしいんです。

わたしも万人に届くような演奏をしていきたいと思います。 今後も多くの芸術・音楽を親しみ人々とふれあい学び、人間らしさを感じながら、そして私がいただいたすべての感動とその喜びをクラシック音楽で多くの人に届けたいと思います。 来年7月にはゲンソウジンが新たに生まれ変わるコンサートを予定しています。これは今後の私たちの演奏活動に大きく影響するものと思います。 私自身期待に胸の膨らむ思いです。
長時間ありがとうございました。今後のご活躍を楽しみにしています!
Piano duo GENSOJIN
(ゲンソウジン)
日南由紀子さん&持田正樹さん
2人は共に、東欧の変革時代にハンガリー国立リスト音楽院に学び、1996年ブダペストにてハンガリー交響楽団と2台のピアノ協奏曲の共演を機にコラボレーションを始め、ソロ、2台ピアノ、4手連弾によるプログラム構成のもとニューヨークのカーネギーホールを始め、ヨーロッパ、アメリカ、アジア各国にて公演を行ってきた。イタリアで開催された「イブラ・グランドプライズ国際音楽コンクール」デュオ部門で最高位、併せて《カセラ賞》。ソロ部門では優勝、併せて《モーツァルト賞》《バルトーク賞》受賞。同時受賞は日本人ピアニストとしては初の快挙である。そのほかにも「ウィーン国際音楽コンクール」(ウィーン)優勝。またそれぞれソリストとしても活躍しており、持田はナミレコードよりソロアルバム「リストプレイヤー1」が全国発売されレコード芸術準特選盤、日南はオーストリアのレーベルIPAとの契約によりDVDとCDが欧州にてリリースされている。2001年より毎年夏、ゲンソウジンピアノセミナー(マスタークラス)を各地にて開催。また絵本音楽を手掛けた子どもたちへの演奏会「ママ、うたって!」を展開するなど幅広く活躍している。
http://gensojin.com/
スタインウェイ会最高顧問 鈴木達也氏にインタビュー
鈴木会長にお聞きします。 ゲンソウジンのお二人の今後のご活躍につきましてアドバイスはありますか?
デュオ演奏のふたりも素晴らしいのですが、それぞれのソロ活動も見逃せません。演奏会では先におふたりがそれぞれソロ演奏をしますね。感性も曲も全く違うおふたりがソロを弾いた後デュオでぴったり息のあった演奏をします。演奏会としてもとても楽しいし面白い。高い技術を誇るお二人にはもっともっとソロ活動に力をいれてくださると僕は嬉しく思います。

デュオの演奏会の前には激しくぶつかり合ったご様子でしたがそれもお互いの演奏に磨きをかけてきたのですね。ハンガリーを愛しこの国のすべてを受け入れ一心に音楽の勉強をなさったおふたりが持つ素晴らしい音楽性はまだまだ可能性に満ちています。これからも大きな飛躍をぜひ見せてほしい。期待しています。
鈴木 達也
スタインウェイ会最高顧問
1938年東京生まれ。1962年慶応義塾大学経済学部卒業、同年日本楽器製造株式会社(現ヤマハ株式会社)入社。68年米国ロサンゼルス米国現地法人ヤマハ・インターナショナル・コーポレーションへ出向。78年同取締役副社長。84年帰国、ヤマハ株式会社秘書室長。86年(財)ヤマハ音楽振興会専務理事。89年ヤマハ株式会社取締役、米国本社ヤマハ・コーポレーション・オブ・アメリカへ出向、同代表取締役社長。92年帰国、ヤマハ株式会社顧問。97年スタインウェイ・ジャパン株式会社代表取締役社長。2008年より会長、相談役、スタインウェイ会会長、2010年よりスタインウェイ会最高顧問、現在に至る。
福田 明子
ホールのオープンとともに管理運営に携わっています。クラシック音楽の演奏会をこよなく愛し朝から寝るまで音楽づけの毎日。たゆまぬ努力を重ねるアーティストの魅力的な人間性に触れる機会が増えるにつれ、音楽のもたらす力を実感している毎日です。
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