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■ 世界で活躍するウーマンたち


[中国最前線] 平井 美知代さん(上海兎兎安平面設計有限公司 営業部長)

平井 美知代さん (上海兎兎安平面設計有限公司 営業部長)
上海兎兎安平面設計有限公司 営業部長
同志社大学経済学部卒。高校時代に米国ホームステイ留学。1987年東レ入社。香港、東南アジア、中国の事業投資プロジェクトに従事。北京3年駐在後、LycraRのブランディングを経た後、10年間上海統括会社で社長室長として投資案件及び、広報宣伝に携わる。 2013年、夫の上海でのアーティスト活動の為に退社.上海兎兎安平面設計公司を立ち上げる

私の北京大学外資企業EMBAの先輩でもある平井美知代さん。 初めてお目にかかった時は、上海にお住まいになられていて、東レで働くバリバリのキャリアウーマンでいらっしゃいましたよね。お仕事変わられたのですね。
夫が上海で「グラフィックデザイナー」から「アーティスト」への転向をする為、昨年10月末に27年間勤めた東レを辞め、上海で「上海兎兎安平面設計有限公司」を設立しました。現在の私のポジションは広報、宣伝を含む営業部長です。今は、上海で夫の作品を発表する為、個展開催に向けて中国人の女性パートナーと準備を進めています。
平井さんというと、海外に精通されているという印象をいつも受けるのですが、これまでどのようなキャリアを築かれてこられたのでしょうか?
同志社大学経済学部で金融論を専攻、1987年に卒業し、東レに入社.雇用機会均等法が施行される前でしたが、男性同等の総合職として採用されました。高校時代にYFUというグローバルな交換留学制度を通じて、米国ミシガン州にホームステイで1年間留学し、英語が堪能でしたので香港、タイ、マレーシアの繊維生産事業の投資プロジェクトの補助を担当しました。

その後、香港の中国返還を前に、工場を広東省の移転する事になり、自然と中国プロジェクトも担当する事になっていました。1997年から北京事務所に3年間駐在し、中国総代表と北京事務所長の補佐として中国政府との連絡や、関係構築の他、中国の各種制度調査等、中国での事業展開を踏まえ、本社へ報告を担当していました。

2000年4月には、東レとDupontの合弁会社でLycra(r)というストレッチヤーンのグローバルブランディングが始まる事になり、日本のブランドマネージャーに任命され(他に北米、南米、欧州、香港)、ブランド認知向上の為にPRを中心とした広報、宣伝等のブランディングに携わりました。浅草サンバカーニバルで、ダンサー達のサンダル用に、「足袋型ストッキング」を提供し“Lycra(r)”のロゴ入り団扇を配り、パレードに参加したのは、楽しい思い出です。

2001年11月には、東京本社の国際部に異動になり、再び中国投資事業を担当し、上海での統括会社設立を起案。程なく同社に派遣され、社長室長として、傘下会社の投資プロジェクトを担当、更に広報宣伝の仕事が加わり、広報/宣伝室長を兼務し、東レ杯上海マラソン、上海時装周、中国時装周(China Fashion Week)等の大型の広報宣伝の仕事に携わりました。
中国との関係はいつから始まったのですか
入社3年目から香港の事業投資プロジェクトのアシスタントをしていました。香港子会社が1992年に、陕西省の国営綿織染工場を合弁企業として設立し、技術者派遣に関わる補助業務の担当になってから中国本土との関係が始まりました。
「中国」という国をご自身で選ばれたのでしょうか。
香港が1999年には中国に返還されるので、1997年からNHKラジオ講座で中国語の勉強を始めましたから、「選んで頂けるように努力をした」と言うのが正しいですね(笑)

香港の中国返還を控え、人件費や工場の土地価格が上がった為、グローバルブランドのゴルフシャツに使用されるニット生地の生産/縫製事業を広東省に移転する事になり、中国投資制度の調査から始まり、立地調査/社内審議の資料作成に関わり、自然に中国も担当する事になっていました。

「これからは中国」と思い、準備をしていておかげで、現地の方と関係構築の上で、直接コミュニケーションが出来た事が一番良かったと思います。
ご縁と先見の明によって中国を見出し、そのプロとなった平井さんから見て、キャリア、仕事という意味において、中国と日本での違いを感じますか?
中国の方のキャリア、仕事に対する意識は、欧米に似ていると思います。自分のキャリアをベースに、給与に見合う職場や自己実現ができる職場を選び、中には独立する人も少なくありません。ただ、日系企業を希望される方は、日本語を勉強し、漫画やTV番組を通じて、日本に親しみを持っている方が多く、社内でもOJTによって人をきちんと育成する仕組みがありますので、安心感をもって働いています。女性は出産してもほぼ全員と言っていい程、4ヶ月の出産休暇の後も元の職場に戻って来てくれます。
平井さんが感じる日本が学ぶべき、中国のビジネス習慣や文化などはありますか
私が元居た職場では、中国人男性が男性だけで飲みに行くという習慣はあまりありませんでした。仕事を離れれば、男女や上下の差はなく、円卓に座り、大勢で食事をして皆に共通する話題を見つけて会話を楽しんだものです。

中国語の普通語には、オフィシャルな場では尊敬語も謙譲語もありますが、通常の会話には、丁寧語も男女の表現の違いもありませんので、言葉遣いを気にする事なく、とてもオープンに冗談を言い合い、楽しく食事が出来ますね。
私も平井さんに初めてお会いした時に、その時は日本人だけの会合でしたが、非常にオープンで気さくな方だなという印象を受けました。そういう姿勢は海外の方と関係を構築していく上でも大切ですよね。このオープンな性格は元々ですか?(笑)
母の影響ですね。大阪教育大を卒業し、戦後GHQ側の秘書を務め、3人娘を出産後は自宅で茶道、華道、英語を教え、社会では全国子供会連合に携わり子供の健やかな育成に携わり、とにかく美しくて社交的な人で、我が家には、ひっきりなしに人が出入りしていましたので、家族全員がオープンでした(笑)

それに、私は歌うのが好きで大学時代、同志社軽音楽部のビッグバンド「サードハード オーケストラ」でボーカルをしていました。授業が終わってから練習をし、帰宅が遅くなる事が多く、母が「大学で歌って遊ぶのもいいけれど、帰宅が遅くなるなら、月曜日だけは夜7時までに帰宅して「詩吟」をしなさい」と言われ、渓月流の家元教授に自宅にお越し頂き、マンツーマンでご指導を頂きました。5段までお免状を頂き、大会ではいくつも賞を頂いていましたので、歌には自信がつきました。
そんな特技があったのですね!
その特技(笑)を活かし、北京事務所に出向中に旧正月恒例の人気番組「新春 外国人中国の歌合戦」で優勝した事があります。インド、フランス、アメリカ等、各国の代表が自国の衣装を身に着けて中国語の歌を歌うのです。私は、「青蔵高原」という高音を聞かせる歌で日本代表となり、振り袖を着て歌いテレビに出演致しました!

その後は、大きなパーティーがある度、リクエストにお答えして、振り袖を着て歌いました。東レの最大事業拠点である中国南通市の市民祭りや会社の懇親会等、あちらこちらで歌いましたよ! おかげ様で、人気者でした。
凄い!!是非一度聞かせて下さい!!(笑) ところで、中国での生活も長いかと思うのですが、仕事以外の時はなにをされているんですか。
今は、夫と二人で過ごすのが基本です。翌日が休みの日には、遅くまで中国映画や連続TVドラマ等のDVDを見てます。特に、中国の歴史物が面白いですね。中国に住む上で勉強になります。春から夏にかけては庭の手入れかな。春には庭の壁に蔓バラを咲かせますので、友人を招いて庭でパーティーをするのが楽しみです。

それが終わると枇杷の季節。とても大きな枇杷がうちにあり、ご近所の皆さんも楽しみにしていらっしゃるようで、今年は休みの日に収穫をした為、ご近所の方がやって来て、喜んでもってかえって下さいました。何だか、昔の日本みたいなご近所付き合いをしています。
仕事やプライベート含め、海外を見てこられた平井さんにとって、日本人として海外で生きていくTips、資質、考え方などはありますか?
これまでのキャリアの中でもお話しましたが、17歳の時に、『Youth for Understanding』というグローバルの留学機構を通じて、1年間米国ミシガン州デトロイトにホームステイ留学をしました。海外の家庭に高校生をプレイスメントし、ホームステイを通じて、その国の文化や歴史を学ぶと共に、自国の文化を伝え、相互理解を深める事を主旨とした機構でした。

派遣前のオリエンテーションでは、「あなた方一人一人は、日本の小さな大使だと思って下さい」と言われた事が忘れられません。日本人と接する事の少ない海外の人にとっては、「私=日本」なのです。ですから、日本の事を聞かれた時には、歴史、文化、政治情勢等をきちんと知っておき、対応できるよう努力をしています。

また、海外に住む時は、「その国に住まわせて頂いている」という気持ちを忘れず、どんな人に対しても敬意をもって接し、自分の考えをきちんと伝える事ができなくてはいけないと思っています。
海外で成功されている日本人の方、皆さんそうおっしゃいますね。ただ、中国では、個人の力だけでは対処しきれない問題もはらんでいます。
そうですね。今、政治の面でこれまでにない程、日中両国の国民感情が悪化しています。NHKスペシャルで、日中国交回復の時の、田中角栄と周恩来の握手のシーンをDVDで見る度に、私は涙が溢れて止みません。今、日本があるのは、中国のおかげであり、過去の方々の智慧と努力で回復されたこの関係を、より発展的に構築して行くのが中国で生きる日本人一人一人の使命だとも思っています。

つまらない事ですが、私自身は、タクシーに乗る時、運転手の横に座る事にしています.運転手と話をするのです。最近は、日中関係について話をし、降りる時に「中日友好」と言って、握手を求めるようにしています。拒否された事は、まだ一度もありません。そんな日本人が一人でも居るという事が相手に伝わればと思っています。
素敵な話ですね。個々の草の根レベルででも、友好的な外交が出来るように努めていくことが、両国関係の前進に繋がると信じています。

さて、話は変わりまして、平井さんはまさにグローバル女性としてキャリアを積まれてきていますが、そもそも、どのようなキャリア観をお持ちでいらっしゃるんですか。
キャリア観って何かよくわからない世代かも知れませんね。雇用機会均等法が施行された1987年に東レに入社し、後続女性の為に27年間突っ走って来た感じです。それに気づいていた昔の上司が、米Dupont社のグローバルブランド『Lycra(R)』の日本のブランドマネージャーに任命してくださった事があります。

「平井さんの仕事は、階段を駆け上がっているが、後ろを振り向くとに何も残らないような仕事の仕方に見えるので、ぜひ、ブランディングをして残る物を作って欲しい」とおっしゃって、真摯にそれを受け止めて仕事を始めましたが、1年半後、当時の本社の会長が「平井は中国」と言って、中国プロジェクトに戻る事になりました。

その時の上司は「それなら後ろを振り向かず、ずっと階段を駆け上がって行っけばいいんだよ」と言う言葉を信じて、新しい事をどんどんしようと思い、年初に中国プロジェクトについて、新しい案をだすよう指示があり、中国の「統括会社」の設立を提案した所、それが承認され、各国にも統括会社を作り、各国毎に事業管理を行うシステムが採用され、その後、ほどなく中国統括会社に赴任する事になりました。  

また、社内報が日本語版と英語版だけしか作成されていないので、「中国語版も作成したい」と報告書に書いたところ、「誰がそんな事を言った!」と、当時の上司に書類を投げて怒鳴られはしましたが、中国プロジェクトの規模と従業員数を考えると、会社に対する共感を得るために絶対に必要だと考えて意見を書いただけだったのですが、

後には実現させて頂く事が出来ました。与えられた職務に対して真摯に向き合い、自分の考えと意見を持って、それを実現できるよう協力者を見つけ、手段を考え、最初は辛くても「むちゃくちゃ楽しい」と思って、仕事をすすめる事が、キャリアとなって行くのではないでしょうか。
がむしゃらに階段を上り続けることが、結果的に後のために道を残すことになったり、見えなかった道を示すことになったりすることってありますよね。平井さんのこれまでのご尽力、本当に敬服致します。

そんな中で、中国滞在以前を含め、ビジネスで一番つらかったことは何ですか。それをどう乗り越えたのでしょう。
若い頃は、香港、タイ、マレーシアの海外事業のアシスタント担当で、投資に関する社内発案が多く、本社会議の直前になると缶詰状態になり、何人もの関係役員の方々のご了承が頂けるまで、毎晩遅くまで、翌朝も早く出勤し、資料の修正が続き、ご了承を頂くまで、それが延々と続きました。

上司は海外で財経トップを経験された、とてもオープンで気さくな方ばかりだったので、職場は楽しく仕事自身は辛くはありませんでしたが、早起きするのが辛かったですね(笑)
そんな仕事でストレスがたまった時の解消の仕方をお持ちなんですか?
あまりストレスを感じない方ですが、仕事で缶詰になった後は、気の合う仲間と一緒に食事をし、お酒を飲み、大笑いをする!文句を口に出すと、言霊になって自分に返って来るので、お酒と一緒に飲み込む事にしています。その為、お酒の量が増えるのかしら?
(笑)。平井さんってメールでやりとりをしていても、その中にユーモアを忘れない、ご自身曰く「まさに関西人」でいらっしゃいますけれど、ご自身をどんな人だと分析されていらっしゃいますか
よくも悪くも関西弁で言う「ええ加減」な人かな?言いたい事を言いますし、敵もいましたが、応援してくれる強い味方も沢山出来ました。型にはめられたくないんですね。
そんな平井さんにとって、ご家族はどんな存在ですか
上海では家族は14歳年上の夫一人です。私にとっては最高で最強の味方です。2008年末上海で知り合ってすぐに夫が私の家に住み始め、今年で結婚5年になります。私は時間を売るサラリーマンでしたが、夫はグラフィックデザイナーで、自由業。「料理もデザインのうち」と言って、毎晩食事を作ってくれます。普通の男女の役割が逆転しているようですが、お互い、得意な事を担当し、エンジョイできればいいと思っています。

ある日、私が外食の予定を伝えるのを忘れて家に帰って来たところ、怒って作った料理をゴミ箱に捨てて、家を出て行ってしまいました。一日の内、二人で過ごせるのは晩ご飯のひと時だけですから、本当に楽しみにしてくれているんですね。
素敵なご主人ですね!まだまだ新婚のおのろけ話も有難うございます(笑)。 では、ご自身のこれからの展望をお聞かせ下さい。
27年間「東レ」という日本を代表するグローバルな素材メーカーで働き、香港、タイ、マレーシア、中国の事業企画管理を担当した他、DUPONTの Lycra(r)という世界のトップブランドのブランディングにも携わりました。北京に3年、上海10年の駐在を通して中国政府や企業のトップクラスの方々、また著名なアーティストやデザイナー等、素晴らしい方々と出会う機会を頂き、社内では海外の新規事業企画と言う昔の上司曰く、「血湧き、肉踊る仕事」を経験し、社内外の方々と苦労や喜びを共に分かち合いながら、職務に邁進できた事に心より感謝しています。

実は、50歳で会社を辞めようと、入社した時から心に思い準備をしており、時間を売る仕事ではなく、価値を売る仕事をしたいと思っていました。夫、次田勝広は軟式テニスで高校1年生で日本一になった男。自らの経験から、あらゆるスポーツマンの最高の「瞬間」に焦点をあて、それをテーマに、作品を描き続けています.次田の描く「瞬間/モーメント」が、見る人に感動と力を与え、それが世界の新しいムーブメントのきっかけとなるよう、これまでの経験を活かして支えて行きたいと思います。
最後に、これからグローバルに働きたいという女性へのメッセージをお願いします。
グローバルに働く為には、「私でなくては出来ない」というONLY ONEとなる何かを  見つけて、追求する事が必要ではないかと思います。 私は、50歳にして、東レを退社しましたが、退社した事を惜しんで下さる方が社内外に、そして日中共にたくさんいてくださったおかげで、私自身のIdentityは確立されており、受け入れられたと言う事を誇りに思っています。人生一回こっきり自分の物、どうせ生きるなら楽しんで生きましょうよ!(これは、夫の言を借りました!)
大変貴重なお話、有難うございました!!!

 

-企画・取材-
img谷本 有香 Yuka Tanimoto
経済キャスター/ジャーナリスト 
山一證券、Bloomberg TVで経済アンカーを務めたのち、米国MBA留学。その後は、 日経CNBCで経済キャスターとして従事。CNBCでは女性初の経済コメンテーターに。

英ブレア元首相、マイケル・サンデル教授の独占インタビューを含め、ハワード・ シュルツスターバックス会長兼CEO、ノーベル経済学者ポール・クルーグマン教授、 マイケル・ポーターハーバード大学教授、ジム・ロジャーズ氏など、世界の大物著名 人たちへのインタビューは1000人を超える。

自身が企画・構成・出演を担当した「ザ・経済闘論×日経ヴェリタス~漂流する円・ 戦略なきニッポンの行方~」は日経映像2010年度年間優秀賞を受賞、また、同じ く企画・構成・出演を担当した「緊急スペシャル リーマン経営破たん」は日経CNBC 社長賞を受賞。 W.I.N.日本イベントでは非公式を含め初回より3回ともファシリテー ターを務める。

2014年5月 北京大学外資企業EMBA 修了
現在、テレビ朝日「サンデースクランブル」ゲストコメンテーターとして出演中
http://www.yukatanimoto.com/

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 


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