誰しも、自分の理想通りのキャリアを着々と歩みたいと望むもの。でも現実は、そう簡単にはいかないものですね。
落語の世界にも、キャリアの悩みを抱えた人がいます。彼の名前は、中村仲蔵。江戸時代に実在した歌舞伎役者です。彼の苦悩ぶりを、ちょっと覗かせていただきましょう。
舞台は、江戸・中村座。
長年の厳しい役者修行を耐え抜き、仲蔵は晴れて「名題(なだい)※」に昇進しました。※当時の役者には厳しいヒエラルキーが存在し、最上位である「名題」まで昇進して初めて一人前の役者として認められた。
名題になると主役級の役を当ててもらえるとあって、仲蔵は大張り切り。そのうえ、次の演目は大人気の「忠臣蔵」。どんな役がもらえるかと期待が膨らみます。
しかし実際に来た役は、「五段目・山崎街道の場」の「斧定九郎(おの さだくろう)」。仲蔵は心底、落胆します。
定九郎は、今でこそ「色悪(いろあく:かっこいい悪役)の華」といわれ花形役者が演じる役ですが、当時は役者からも観客からもそっぽを向かれる、さえない役でした。
というのも、定九郎の衣装やメイクが、砥の粉化粧(赤ら顔)にむさくるしい髭、ぼさぼさの頭にゲジゲジ眉毛、どてらという山賊スタイルだったからです。そもそも名題がやるような役ではないので、存在感もありません。仲蔵の出世を快く思わない人間が、嫌がらせのために当てたのでした。
「苦労に苦労を重ねてようやく名題に昇進したのに、この仕打ち…。このままじゃ役者としての見込みもないし、いっそ辞めちまおうか」と愚痴る仲蔵を、女房のお吉は優しく励まします。
「敢えてお前さんにこの役を、ということは、『仲蔵なら何か工夫をするだろう』と期待しているからではありませんか? お前さんにしかできない定九郎を、見せて下さいな」
お吉の言葉にはっとする仲蔵。「そうだ。どうせなら誰も見たことのない、皆の度肝を抜く定九郎を見せてやろう。俺が役者として名を上げるには、やるしかない」
こうして仲蔵は、来る日も来る日も新しい定九郎を考え続けます。しかし、一向によいアイディアが浮かびません。
そんなある日…。偶然入った蕎麦屋で、仲蔵は運命的な出来事に遭遇します。
にわか雨に遭い、びしょ濡れで蕎麦屋に飛び込んできたひとりの若い侍。破れた傘を土間にぽんっと放り、伸びた月代を無造作に撫で上げ、ずぶ濡れの黒紋付の袂をキュッと絞る…。
目の覚めるような男っぷり! その仕草の粋なこと!
この瞬間、仲蔵の中に新しい定九郎の姿と演出イメージが鮮明に浮かび上がってきました。
「これだ! この方をお手本にすれば、俺の定九郎が出来る!」
さて、初日の観客の反応はというと…。
仲蔵の期待とは裏腹に、客席はシーンと静まり返るばかり。歓声はまったくあがりません。仲蔵は、この大きな賭けに負けてしまったのでしょうか?
いいえ、そうではありません。客席が静まり返ったのは、新演出のあまりの見事さ、新しい定九郎のあまりのカッコよさに、観客が息を飲んでいたからなのでした。
たちまち、仲蔵の定九郎は大評判に。仲蔵は名優として名を馳せ、彼が作り上げた定九郎が後世に引き継がれていくことになります。
厳しい現実をポジティブにとらえ直し、工夫と努力を重ねることによって、強烈な個性の定九郎を作り上げた仲蔵。私はこの噺を聴くたびに、彼の役者魂の凄まじさ、人生への真剣な向き合い方に心を打たれます。同時に、仲蔵のぶつかったキャリアの壁と現代人のそれとが、本当によく似ているなあとも思います。
仲蔵は名題に昇進した時、「これでいい役をもらえる。きっと順調に、役者としてのキャリアを積める」と思ったことでしょう。にもかかわらず、周囲の嫌がらせによって非常に不本意な役に甘んじることになってしまいました。
同様に私たちも、たとえ希望の仕事に就けたからといって、その後のキャリアが安泰とは限りませんね。もし夢や目標の実現に向かって頑張ったとしても、自分を取り巻く環境の変化や組織の都合によって、その道が急に閉ざされたり、思いもよらない形で失敗させられたりすることが、ままあります。
キャリア心理学者のマーク・サビカス氏は「キャリア構築理論」の中で、「変化の激しい現代社会においては、キャリアを『積む』ことよりもむしろ、自分を取り巻く環境の変化を前提に、時には失敗もしながら『作り上げる(構築する)』ことを重視すべきである」と主張しています。
改めて噺を振り返ってみると、こんな仲蔵の姿が浮かび上がってきます。
・「この先のキャリアを切り開くのは、自分自身以外にない」と自覚した。
・キャリアの新しいテーマ(誰も見たことのない定九郎を作り上げる)に、全力で取り組む腹を決めた。
・テーマへの挑戦を通して自分の新しい可能性を試し、それが価値あるものだと信じた。
・取り組みは困難を極めたが、必ずできると信じて頑張り続けた。
・偶然の出来事(蕎麦屋の侍)をチャンスにした。
・他者(女房)の励ましを素直に受け入れ、力にした。
結果的に仲蔵は、新しい定九郎のみならず自らのキャリアをも、自分の手で「作り上げる」ことに成功しています。
目の前に立ちはだかる壁を乗り越え、自らのキャリアを「作り上げる」ために、私たちは仲蔵のこのような姿勢や行動を参考にすることができるかもしれませんね。
「キャリアの難局に直面した」「辛い現状にどう立ち向かえばいいかわからない」…。江戸人情噺「中村仲蔵」は、そんな時におススメです。きっと、前に進むための元気と勇気がわいてくることでしょう。
なお、仲蔵が生み出した定九郎の姿は、現在でも歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の中で見ることができます。これはもう、筆舌に尽くせません! 機会があったらぜひ劇場に足を運んで、皆さんの目でじかに確かめていただきたいと思います。
参考図書:新版キャリアの心理学(ナカニシヤ出版)
おススメCD:古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック「中村仲蔵」(河出書房新社)
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